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「先輩?」
「理事長、いつも学園ではクールなんだけど。すごい声で叫んでたよね、のんのんッあゆあゆッ、って。外まで聞こえてた」
珠希先輩はまた思い出したのか、くくくっと笑う。やっぱりまた顔がくしゃくしゃになってる。
「クール? 伯父さんが? それのほうが僕には想像できないです」
先輩は、僕らのこと知ってたから、さっきあんなこと言ってくれたんだ。
「歩くんのこと、心配?」
「あ、はい……」
「大丈夫だよ。空也にまかせておけば。あいつ、信じてやって?」
そんなふうに珠希先輩にお願いされたら、断れない。
「はい」
「さ、じゃあ、冷めないうちに早く食べちゃおう。そしたら、僕の部屋においで。空也に連絡入れて様子聞いてあげるし。結局寮の説明もまだだからね」
「あ、ほんとだ。そうでした」
ごはんを食べながら、説明を聞くはずだったのに。
食べ終わった後、またあの非難の中を歩かなきゃいけないのかと思うと、ずんと気持ちが重くなった。
「さあ、行こうか」
珠希先輩が立って僕の右手を掴むと、さっきアユたちが出て行ったのと同じドアから出た。
しんとした廊下の奥にエレベーターがあって、さっき来た道とはまた別なんだと思った。
「のんちゃん。さっきはごめん。ああなること、予測すべきだった」
部屋に付くと、先輩はソファの隣に僕を座らせて、そう言った。
「え……」
「食堂でのこと。気にしてた、よね?」
先輩は、めがねの奥から心配そうな目でそう言う。
気にしてないです、ってそう言おうとするのに、言葉が咽にひっかかって、うまく出てこなかった。
「せ、んぱい。人気あるんですよね? だから、みんな僕が一緒にいるの、怒ってるみたいでした。だから、僕、みんなに悪くって……」
「どうして?」
「だって、ここの人たちはみんな特別なのに、僕、普通で、庶民だし、それに珠希先輩はみんなの人気ものなのに、僕なんかが一緒にいちゃいけないって思うし」
「僕は、自分が一緒にいたい人間は自分で選ぶ。誰になんと言われようとね」
急に珠希先輩の顔が真剣になって、僕は先輩が気分を害するようなことを言ってしまったのかと不安になる。
「のんちゃん、そんな顔しないで」
先輩は僕の髪をくしゃっと掴んだ。
「僕が言った意味、分かる?」
「……はい」
「うん」
「へ?」
「はい、じゃなくって、うん。それに先輩も禁止」
「は、うん」
「のんちゃんの短所は、気を遣い過ぎること。僕の顔色なんて伺う必要ないし、先輩だと思って気にしたりしないでほしい……特権を使うなら、これ、寮長命令。分かった?」
珠希先輩、じゃなくて珠希は僕の肩に手を回すと、ぎゅっと力をかけて、自分の方へ引き寄せる。
僕はどうして彼がそんなことをするのかわからなくって、初めはどぎまぎしていたけど、先輩の右肩に頭を乗せると、なんだか安心して、張り詰めているものが溶け出して行くような感じがした。
「でも、ほんとだったんだ。理事長が言ってたこと」
「……伯父さん、何を言ってたんですか?」
「言ってたの?」
「あ、うん、言ってたの?」
頭の上で、ふっと笑い声が聞こえた。一度目上の人だ、って思ってしまったら、なかなかそれを崩せない。
「ふたりは、ごく普通の一般家庭で育ってて、自分たちのことを庶民だと思ってる、って」
「うん……」
それをどうして珠希はそんなに面白そうに話すんだろう。
「ね、のんちゃん、きっと知らないんだろうけどね。さっき自分のこと庶民って言ってたし。でも、この学園にいる生徒全員合わせても、君の家に叶う資産家は、紫堂財閥と、ま、うちくらいなものだよ」
「へ??」
僕は驚いて、先輩の肩から起き上がった。
うちが、資産家?? お金持ちっていっても、資産とか、財閥とか、そいう世界のことだとは思わなかった。
僕がただ驚いて珠希の顔を見ていると、また彼はくすくす笑いだした。
「だから、もしのんちゃんが言ったように、僕のそばにいるのに、条件が必要だって誰かが言うのなら、君も歩くんも十分すぎるほど満たしてる。それにさっき言ったように。僕がのんちゃんと一緒にいたかったんだ。誰にも文句は言わせないよ」
「珠希……」
僕は、取り柄もなにもないしかっこよくもない。なのにこんなふうに言ってくれて、胸がいっぱいになった。
「やっと、ちゃんと名前で呼んでくれたね」
そう言って彼は笑う。
その時、テーブルの上で珠希の携帯が震えた。
「ちょっとごめん……もしもし。空也? 歩くんどう? うん。分かった。伝えとく」
珠希は電話を切ると、僕に微笑んだ。
「歩くん大丈夫だって。空也の部屋で眠っちゃったみたい。このまま朝まで寝かせるから心配するな、って」
「もう……歩ってば。ほんと空也先輩迷惑じゃないかな」
「いや、大丈夫、さっきの声の感じじゃ、空也喜んでるみたいだったし」
喜んでる? あんなに迷惑かけたのに?
やっぱり空也先輩いい人だなー。
「じゃあ、のんちゃん今夜ひとりだね。ここ、泊まってく?」
珠希はさらっとそんなことを言ったけど、僕はびっくりしてぶんぶん首を振った。
いくら珠希が優しくっても、今日会ったばかりだし、そんな迷惑かけられない。
「まだ、荷物も解いてないし」
「そっか。残念。また今度、泊まりにおいでよ」
「は、うん」
「さ、」
珠希はさあ、って言って、右腕を拡げるようなしぐさをする。僕が分からずに見ていると、またさっきみたいに腕が伸びて来て、僕の肩を掴んだ。
また、背中を珠希の腕に預けるような体勢になった。
僕は、どうしていいのかわからなくって、固まっていた。
「じゃあ、寮の説明だね、っていっても実際大して説明することなんてないんだ。そんなに堅苦しい規制もないしね。僕が君たちに……のんちゃんに、興味があったから、部屋に来てもらっただけなんだよね。これも、寮長の特権」
珠希の柔らかな声が、頭の上から降ってくる。
その声が心地よくて、僕は力を抜いて、珠希に体を預けた。
珠希は僕の髪に指を通して、髪の束を弄っている。
僕に、興味があった?
理事長の甥だから?
「ほんとは、薔薇園で声かける少し前から、見てたんだ」
「え……」
「アーチに入って行くのが見えて。あそこに入る子は滅多にいないから、きっと外部から来た子だなって思って……薔薇の花、好きなの?」
「母が、フラワーアレンジメントしてて。その影響で。薔薇は、香りも見た目も、大好き」
「そう。ひとつずつに、顔近付けてたもんね」
そう言って珠希は笑う。
「え、そんなところから見てたんだ」
「うん。なんか、かわいくって」
かわいい、って。一体今日何回言われたんだろう。そういうふうに言われるのて、男としてどうなんだろうって思ってたけど、珠希に言われるのは、そんなにやじゃない。
……変なの。
「ああー、これ以上この状態は、マズいな」
「へ?」
珠希がそんなことを言うから、僕はやっぱり迷惑なんだと思って、体を起こそうとした。
「あ、今の独り言は気にしないで……ぜんぜん別のこと」
でも、珠希の腕にしっかりと抱きとめられていて、起き上がることは出来なかった。
「よし、じゃあ部屋まで送るよ。明日の準備もあるだろうし」
少しの沈黙の後、珠希は僕の体に回している右腕に、一層ぎゅっと力を込めてから、力を緩めた。
「え? ううん、大丈夫、ひとりで帰れる」
「僕が行きたいから行くの。行ってもいい? それとも迷惑?」
珠希は、首を傾げて僕に訪ねる……。
そういうふうに聞くのは、ずるいと思う。ほんとは僕だって、ひとりじゃ寂しいなって思ってたし。
「迷惑じゃない……」
「じゃあ、一緒に行ってもいい?」
「うん。いいよ」
「よかった、ありがとう」
珠希はそう言って顔をくしゃくしゃにしたけど、なんだかあべこべで、ほんとは僕がありがとうの気持ちでいっぱいだった。
「そうだ。携帯、持ってる?」
「うん、持ってる」
僕はパンツの後ろポケットから携帯を出した。
「番号とメルアド、教えて。僕も教えるから」
番号交換をした後、珠希と部屋を出た。
珠希は、僕の手を握って歩く。男同士だし、これって、変じゃないのかな?
アユもよく僕の手を握って歩くけど、それは兄弟で昔からだし。
珠希がどうしてそんなことをするのか分からなくって、ときどき顔を見上げてみたけど、その度に微笑む珠希と目が合ってしまって、僕はぎこちなく微笑んだ。
でも、嫌じゃない。
「着いたね。じゃ、おやすみ」
僕が部屋の鍵を開けると、珠希はそう言った。
「あの、お茶でも……」
「ありがと。でも、もう準備した方がいいよ。ね」
「うん」
ひとりぼっちの夜って初めてだから、寂しくて思わず引き止めてしまった。
「ひとり、寂しい?」
珠希が僕の頭を撫でる。
だめだ、また心配かけちゃう。
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