六月二十一日、午前九時

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六月二十一日、午前九時

 次の日、自室で微睡んでいた千香を現実に引き戻したのは、煩いほどに鳴り響くチャイムの音だった。  母が慌てて玄関へ向かったようで、足音が騒がしい。千香はもうひと眠りする気にもなれず、着替えてリビングへ向かった。 「夫が帰ってこなかったんです。連絡も取れなくて。何かご存じないでしょうか」  玄関から漏れ聞こえる高い声に、千香は訪問客の正体を察知した。沢木陽次郎の妻、(みどり)だ。 「沢木さん、落ち着いて。警察に届け出はしたの?」 「はい、今朝すぐに。でも、いてもたってもいられなくて……」  千香は思わず玄関へ飛び出す。翠が取り乱して、目に涙を浮かべていた。ボブヘアーの黒髪には艶がなく、ぼさぼさだった。  母は翠の肩に両手を置き、宥めている。翠は若く、千香と年が近い。娘のように思えて放っておけないのだろう。  開いたドアから覗く空からは雨が降りしきっている。昨日よりも大分落ち着いているけれど、止む気配はない。 「千香、おはよう。今取り込み中なのよ、悪いけど後にして」 「待って。旦那さんのことでしょ? あたし昨日、旦那さんに会った……と思う」 「本当ですか?! どこで?!」  翠は千香に縋りつく。昨夜は眠れなかったのだろう、目の下のクマが酷い。  千香は昨夜のことを話した。三駅先の住宅街で彼を見かけたこと。大雨の中、スーツに花束を抱えていた姿が異様だったこと。千香の呼びかけに応えなかったこと。  そこまで話して、翠の目が血走っていることに千香は気がついた。
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