六月二十一日、午前九時

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 辿り着いた花屋の店員は、目元に笑い皺のある三十代くらいの女性だった。彼女は昨日も出勤していたらしく、沢木のことを覚えていた。  客足も途絶えたので店を閉めようとしたら、あの大雨の中、沢木が駆け込んできたのだという。 「その男の人、ピンクの花を買っていきませんでしたか? 名前は分かんないんですけど」 「スターチスのことかしら? 確かに買っていかれましたよ」 「その後、何処に行くとか、そういう話はしてましたか?」 「具体的な話はされませんでした。ただ、愛する人の元へ向かうとだけ」  沢木も案外随分クサい台詞を吐くものだ。店員は困ったように微笑んでいる。千香も苦笑した。  翠は随分愛されているようだ。千香は胸をなで下ろした。沢木が翠の元に戻らないのは、何か不幸な事故があってのことだ。沢木の意図したものではない。そう自分に言い聞かせる。 「どうしてスターチスを選んだんでしょうね」 「それは、私も一緒に選ばせていただいたので分かりますよ。変わらぬ心と永遠の愛を誓う花が欲しいと言われたんです」 「へえ! ラブラブなんですね」 「……どうなのかしら。花を選ぶときに色々と話したんですけれど、一度心変わりしてしまったと聞きましたよ」  店員は呆れた表情だった。千香は顔を顰めた。翠の前で聞かせる話ではない。案の定、彼女は顔を青くして、肩を震わせている。 「花を贈るのは償いのためって仰ってました。十年ずっと付き合ってきた方がいたのに、若い子に浮気してしまったんですって。そのことを後悔されていました。相手の方、許して下さると良いんですけどね」  店員にお礼を言って、二人は店を後にする。駅へ向かう道のりで、口を開くことも憚られるほどの沈黙が二人を包んだ。  店員の話を聞いて、千香の中の前提が覆ってしまった。沢木が花を買った理由も、花を渡す相手も、翠ではない。  翠はまだ二十代前半で、十分若い。沢木と十年付き合うことも……不可能ではないかもしれないけれど、現実味が薄い。  千香にも一回り年上の彼氏がいるが、自分は《遊ばれている》人間なのだろうと思うときがある。彼は、千香の若さをちやほやする癖に、その未熟さを馬鹿にしてくることが多い。本当に大切にされているわけではない。多分、数年後には別れるような気がする。  沢木は翠に渡すための花を買ったのではない。  それどころか翠は、沢木の言う「愛する人」ではない。遊び相手だったのだ。  だったらどうして、沢木と翠は結婚しているのだろう。その理由は分からないけれど、一つだけはっきりしたことがある。沢木は今、愛する人の元にいるということだ。けれど、その人がどこに住んでいるのか、千香には分からなかった。
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