六月二十一日、午前九時

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 翠は新入社員のとき、沢木陽次郎に指導を受けていた。翠と沢木が逢瀬を重ねるようになったのはその頃だった。 「年上の人って頼りになるじゃない? 付き合ってる人がいるのは知ってたけど、気持ちが抑えられなくて、段々外で会うようになった」  翠の話が降りしきる雨の音に上書きされていく。千香は腕に力を込め、必死に耳を傾けた。 「あの人は私のこと、本気にしてなかった。それでも、やることはしっかりやってさ。……馬鹿みたい。ごめんね、若い子にこんな話聞かせちゃってさ」 「……どうして、沢木さんは日吉さんと結婚しなかったんですか」 「彼女は仕事で重要なポジションに就いてた。陽次郎さんのことは愛していたけど、職場での見られ方、立ち位置が変わるから結婚は渋ってたらしい。それでも、あと一年したら結婚しようって話はしっかりしていたようなの」  沢木は日吉を待つ間、翠に心を傾けてしまった。……しかも、翠は妊娠もしていた。しかし、その子は日吉の死後、流産してしまった。今お腹の中に居る子は、所謂第二子だそうだ。  日吉は十年愛して信頼していた沢木に裏切られて、失意のうちに命を捨てた。沢木は一年経って、ようやく日吉の存在の大きさに気付いて、耐えられなくなったのだろうか。当事者二人は既にこの世のものではなくて、直接話を聞くことは出来ない。千香には、想像することしか出来ない。 「私、ようやく気付いたの。陽次郎さんが私と結婚したのは世間体のためだって。日吉の代わりになっただけ。代替物だったのよ。私、やっと陽次郎さんの一番になれたんだと思ってたのに。全部、思い違いだった。夢だったんだ……」  打ち付ける雨の中、翠の憐れな嘆きだけは鮮明に耳に残った。  まるで、雨が日吉有江の気持ちを表しているかのようだ。  沢木を引き止めようとした千香を阻むために降り注いだのも。  翠の恋の思い出を語らせまいと強く叩きつけたのも、彼女の遺志に思えてならない。千香は苦々しい気分になる。    先程まで止む気配のなかった雨は、段々細かくなっていく。遂には雲から晴れ間が見えてきた。雲を切り裂いて差し込む光は水面を光り輝かせて、空と海に色彩を与える。  翠の泣き声が辺りに響き渡る。  雨はまだ止まない。  今、二人の頭上に降り注ぐ優しい雨も、日吉の遺志によるものなのだろうか。だとしたら、彼女は今、何を考えているのだろうか。  空の上か海の底に行かない限り、答えは得られないと分かっていても、千香は心の中で問いかけずにはいられなかった。  
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