【 31 / 終章 】

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【 31 / 終章 】

 それ以降を結末から言えば、僕たちの劇は目立った失敗もなく最高の出来に仕上がった。 終幕後の拍手はなんと十分以上も続き、カーテンの隙間から先輩が姿を見せて深くお辞儀した時のスタンディングオベーションの凄さは勿論、場つなぎでひょっこり顔を出した僕や、次の演目のために観客入れ替えの誘導を受け持った風紀委員さんですら拍手を貰えたくらいだ。 当然、後日に文化祭全体を振り返った時の総評も上々だった。  自分でも信じられない事だが、『 役者としての僕 』はあのキスに動揺しなかった。 多分あの時、思考のどこかでは、今の自分はあくまでも劇の主人公で、今の先輩は同様に劇のヒロインなのだと ──── 二人の行為は役柄を反映したアドリブのようなものなのだと ──── 理解していたのだろうと思う。  そう、劇は劇だ。  僕と先輩が、劇を出発点にお互いの距離を縮めたりするといった事もなかった。 受験を控えた彼女が一、二年生に演劇部を託して去って行く時も僕はあの人にとって一人の下級生にすぎなかったし、最後に二人であのシーンを振り返って話をしたりもしなかった。  ただ、あの劇の後の、三年生が卒業していくまでの数ヶ月、校庭やカフェテリアでたまに先輩と目が合った時に、駅のコンコースで彼女が見せた(かす)かに迷うような、まだ自分がどうするか決めかねているといった(おもむ)きの、捉えどころのない独特な笑顔が一瞬僕へと向けられる事はあった。 それは僕たちだけが共有する、誰も知らない秘密のシーンを演じた二人にしか理解できないサインのようなものだった。  在校生と卒業生が交流する部籍(ぶせき)(かい)で再び顔を合わせる機会が増えても、僕と先輩は(いま)だにあの時の数秒間を話題にしたことがない。 言葉にしてしまえば、それはその途端に今ある形から何か別のものとして色()せ始めるような気がするのだ。  そして思う。 もし先輩にとって、高校生活最後に演じたあの劇が大切な思い出になったのなら、そうなる手助けをもしも僕ができていたなら、あの夏、アカバポプラの木陰で僕を待ってくれていた彼女に感謝の気持ちを示すことができたのなら ──── 僕は十分満足だ、と。    ◇  そう考えておくのが賢いと、分かっている。    ◇  触れることなく保つべき思い出もあるのだと、分かっている。  でも ‥‥‥、  それでも、ふとした会話の切り替わりに生じた短い沈黙の中、先輩があの頃と変わる事のない謎めいた笑顔を浮かべ僕を見つめている時には、いつかはこの(ゆる)やかな暗黙のルールをどちらかが踏み越える時が来るのかもしれないと、そっと考えてみずにはいられない。                     END
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