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「何?」
「……今日な、ジルゲンくんが来たんだ」
ニーシャの心臓が嫌な音を立てた。
「……そう。何か用事が?」
ニーシャはふたりの視線から逃げるように食事を再開する。料理の味が、途端にわからなくなった。
「明日の昼、一緒に食事をしようと言っていたよ」
「明日は――」
考えるよりも先に口をついて出そうだった言葉を、ニーシャは飲み込んだ。
「断るか?」
「……ううん、平気。それに、断るなんてできないわ――婚約者なのに」
そう小さく笑って、ニーシャは肩を軽く竦めた。それでも心配げな様子の両親に、ニーシャは「大丈夫」と言葉を重ねた。
いつものことだ。己の都合だけで事を進める婚約者は、最初からそうだった。そしてニーシャも優先順位がわからないほど子どもではない。ふたりが心配そうにする必要はないし、そんな顔をして欲しいわけでもないのだ。
ニーシャは、父と母を安心させるように瞳を和らげた。
「何も心配いらないわ。それに、ジルゲンさんと話したいことだってあるの。婚約者らしいでしょう?」
軽やかに言ったニーシャに、やっとふたりも愁眉を開いてほほ笑んだ。気を取り直すように、それぞれが食事を再開する。
母が自身の試作品の話をニーシャに振り、それに感想を伝えると今度は父が助言したり入荷予定の素材を提案したり。普段の食卓の空気に戻っていく。
その空気の一つでありながら、ニーシャは内心ほっとした。――自分は、ちゃんと笑えていたようだと。
夕食を終えて部屋へ戻ったニーシャは、今まで作った装飾品を机上に並べ、一つ一つ眺めた。手に取って、灯りにかざしては元に戻す。
(……サルヴァとの約束を守れない)
そう思っても、装飾品を選ぶ手は止められなかった。昼間のサルヴァの言葉が、嬉しかった。十分すごいと褒めてくれて、ニーシャのことを知りたいからと言ってくれた。彼にとって特別なことではないような、普段どおりの声。楽しそうに、でもどこか嬉しそうに口元に笑みを浮かべる横顔。
その声と表情が、心に焼き付いて離れなかった。
ニーシャは机に飾っていた一つの鉱物を手に取る。加工前の角張ったそれは小指の第一関節ほどの大きさで、比較的小さなものだ。ニーシャはそれを、ぼんやりと手の中で転がす。部屋の灯りが反射して、透明感のある翡翠色とその中心を彩る茜色がきらめいた。まるで、海に溶ける夕陽を閉じ込めたような石だ。つけられた名は、『ソレイス』。
宝石にも劣らない原石を、ニーシャはじっと見つめる。そして、おもむろに木製の小箱に手を伸ばした。金属装飾があしらわれた二段重ねのそれは、装飾品を保管するために使用しているものだ。ただし、入れるものは決まっていた。
開けた蓋の下から現れる、翡翠に夕陽がきらめく装飾品の数々。耳や腕、髪を飾るもの。ソレイスを加工して作ったものだ。これだけは、他のさまざまな鉱物からできた装飾品と同等には扱えない。
小箱に添える手に力がこもる。
(見てもらいたい。友人として、そして……『商人』として)
しかしそれは、簡単にとっていい行動ではなかった。少なくとも、ニーシャにとっては。
「……手紙を書こう」
迷いを無理やり押し込めるように小箱の蓋を閉めると、ニーシャは簡素な便せんを取り出す。
明日は行けなくなってしまったと綴って、いつもの場所に置いてこよう。きっとサルヴァは、詮索しないで受け止めてくれる。
不自然にならないように手短に綴り、宛名を書いた封筒にしまう。それから少し考えて、ニーシャは並べていた装飾品の中から腕飾りを一つ手に取った。少しためらって、それでも元に戻さず同封すると、そのまま蓋付きのレターボックスに入れた。
(明日、朝早くに置きにいこう)
ふら、と立ち上がったニーシャは、ベッドに倒れ込んだ。布団に顔を埋めてから、ごろりと仰向けになる。そして、天井を見るともなしに眺めると左腕で両目を覆った。
重く小さなため息が、ニーシャの口からこぼれる。
(……知られたくない)
婚約していると知ると、きっとサルヴァは二人きりで会わないようにするだろう。ニーシャのこと、そして顔も知らない相手のことを思って。短い付き合いでもわかる。彼はそういう、他人を慮れる人間だ。
婚約者がいるのに異性と二人きりで会って、ましてや話に花を咲かすなど、あってはならないことだ。それがたとえ、友人だとしても。
(それでも私は、失いたくない……)
どうすることも出来ない感情が胸を食み、それでもニーシャは、震える息を飲み込んだ。
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