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 サルヴァが静かに家の中に入ると、ソーセージの焼ける香ばしい匂いが漂ってきた。   仕切りのない居間への入口から顔を覗かせれば、玄関の音に反応したのか台所に立つ母が振り向き、それから驚いたように動きを止めた。 「サルヴァ? あんたこんな早くからどこ行ってたの」  寝汚いあんたにしては珍しい、と物珍しげに声を高くする母に、サルヴァは得意気に笑ってみせた。 「早朝の綺麗な空気を吸いにな」 「…………ちょっといやだ、今日時化じゃないわよね?」  「晴天だよ! 失礼だな!?」  サルヴァは台所の小窓から外を確認した母に顔を引きつらせる。 「ごめんごめん。でもあんた、何かないと早く起きれないでしょ」 「その通りなんだけど……いいだろ別に。それより俺、朝飯食べてきたから」 「食べてきたって……まだお店開いてないでしょ」 「心優しい人にもらったんだよ」 「成人間近の男が何を言ってんのよ」  カチ、と火を止めた母はフライパンの中身を陶器の皿に盛りつけてから振り向くと、「あやしいわね」と訝しげに目を細めてサルヴァを見た。  こういった場合の母は、表情とは裏腹に内心愉しんでいるのだ。何度も身をもって知っているサルヴァは、目をそらしそうになるのを耐えて口角を無理やり上げると、何気ない風を装い軽く笑った。友人とはいえ、会っていた人物が女の子だと知られたら、格好の的である。 「冗談だよ。ちゃんとした知り合いだって」 「へーえ」 「……なんだよ、その顔」 「なるほど、なるほど。とうとうあんたにも春が来たのねぇ」  文字通りにやにやしながら放たれた予想外の言葉に、思わず咳き込みそうになる。 「っは、はあ? なんか勘違いしてるだろ。友達だよ、友達!」 「女の子でしょ?」 「どっちでもいいだろ」 「あやし~」  揃えた指先で口元をわざとらしく隠す母に、サルヴァは「っあーもう!」と天を仰いだ。  ぐるっと踵を返し、肩越しに母を振り返る。 「俺もう仕事行くから! それ、昼に食うからとっといて!」 「はーいはい、いってらっしゃい」  からかいの色が消えた声を背中で受け止めながら、サルヴァは玄関の扉を閉じた。盛大なため息が落ちる。  さっきまでの清々しい気分がどこかへいった。 「……行くか」  胸中で愚痴をこぼしたサルヴァは切り替えるように背筋を伸ばすと、自宅に面した石畳の通りへ出る。  人気の少ない道を南へ下っていき、途中でいつも顔を合わせる植木鉢に水をやる近所のお爺さんに挨拶をしつつ、濃くなる潮の香りを辿っていった。  緩やかな坂道を道なりに進むと、突き当たりを右折したその先に本通りが現れる。幅の広い本通りを下った先では、湾が正面――南へ口を開いている。青々とした海、停泊した船、それらを臨んで港の西に寄り建つのは酒場や露店だ。客層の大半は船乗りが占めており、昼前辺りからほどよく賑わっている。  サルヴァの仕事場は、その港の東側一帯にある。事務所、木造倉庫と奥に連なって建つ商家ごとの敷地が、港の東端まで並び広がっていた。この町――『エメリード』に居を構える商人達の中心区画である。  薄明かりだった空は色を増やし、澄んだ青に変わっていく。その空と翠に透き通る海のまぶしさに、サルヴァは目を細めた。いくつもの帆船がゆったりと波に揺られている。柔らかい静けさの中、耳を撫でる波の音と優しい潮風に体を委ねるのが心地好い。  海を右手に半分ほど進んだ辺りで、サルヴァはある事務所の敷地に入った。  二階建ての建物は間口が広く、敷地の境界である石壁までは、馬車が一台通れるほどの距離がある。また、地面の一部は、荷物を台車で運びやすくするために木板で舗装されている。事務所の奥には倉庫が建っており、その間は狭く、互いに行き来できるよう橋のような渡り通路でそれぞれの二階が繋がっているのだ。これはどの敷地も同じ構造となっていて、異なる点と言えば倉庫や事務所の大きさくらいだった。
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