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 サルヴァの仕事場である事務所は、階数こそ二階建てだが、周囲の建物と比べて間口が広い。そして倉庫は、他の商家とは、階層が一つないし二つは違い、三階建てだ。  サルヴァは正面入口の上部に掲げられた看板を一瞥してから、事務所の中へ歩を進めた。  鋼鉄製の金縁の看板に白抜きで彫られた屋号――『ディジット商会』。  サルヴァの父が率いる、エメリードを代表する商家である。 「おはよう、ロッツさん」  事務所の一階は、行商人や小売商を対象とした売り場だ。海を経由しての交易が中心ではあるが、内陸への交易も重要な収入源となっており、特に行商人組合に属する商人が訪れてくる。  カウンター内で新聞を読んでいた人物が「あ?」と顔を上げた。白髪混じりの髪を後ろに流し、銀縁の丸い眼鏡をかけた老年の男性だ。   眼鏡を額にずらしてサルヴァを見とめたロッツは、「今日は大荒れか……?」とぽかんと口を開けた。  サルヴァは大きくうなだれる。 「ロッツさんまで……」 「なんだァ坊ちゃん、珍しいな。急ぎの仕事か?」  新聞を畳むロッツに、サルヴァは「いや」と否定した。  まだ売り場の陳列棚には、白い布が掛かっている。 「早く起きたから、自主的に」 「ははあ、ますます珍しいな。船仕事ん時だって出勤時間のギリギリまで寝てただろうに」 「……それは全くその通りなんだけどさ」  カウンターに寄り掛かりながら、サルヴァは、腕を組んで乾いた笑いを落とした。 (これ、今日あと何人に言われるんだ……)  これから会う人間の顔を思い浮かべて遠い目をしていると、ロッツがにやりと笑った。 「どうだ、慣れたか?」 「さすがに一年もやればな」  すっごい疲れるけど、とサルヴァは軽く笑う。  仕事に加わるようになってからずっと外で動いていた人間が、ペン片手に書類とにらめっこなんて、体を動かすよりも遥かに疲れを覚える。見かねた兄がたまに荷積み作業に借り出してくれるのが、とても有り難い。息抜きは大事だ。   ロッツが「はっは!」と威勢のよい笑い声を上げた。 「気張れよ、坊ちゃん。事務無くして取引は成立しねぇからな。重要な裏方も熟せてこそ一人前だ」 「いてッ……わーかってるよ」  サルヴァはバシッと叩かれた背中をさすりながら腰を上げると、ロッツと向かい合う。 「これでもカナンさんに太鼓判押されてるんだからな」  サルヴァは先輩にあたる人物の名前を挙げて軽く胸を張った。  カナンという人物はディジット商会に約十年在籍しており、仕事が早く頼りになる敏腕事務員だ。 「へぇ、そりゃすげえ。裏の大黒柱の評価は厳しいからな」 「……そんな物々しい呼び名、カナンさんが聞いたら怒るぞ……」 「坊ちゃんが黙ってりゃあ問題ない」  しれっと告げるロッツに、サルヴァは「言うわけない」と首を振る。怒らせると怖いのだ。わざわざ火に飛び入る真似はしない。 「さて、そろそろ行くな」  サルヴァがカウンターから離れれば、おう、とロッツが片手を上げる。それに同じように右手を上げたサルヴァは、カウンターから見て左側にある扉まで歩み寄りドアノブに手をかけたところで、そうだ、と足を止める。 「そろそろ〝坊ちゃん〟は止めてくれ」 「それは聞けねぇな」  飄々と笑うロッツ。予想通りの返事だ。サルヴァはため息をついてから、笑い声を背に扉を開けて廊下へ出た。明かり窓から差し込む白い光に、宙を舞う細かな埃がちらちら視界に入る。  廊下は一本で、突き当たりを曲がると左手に物置部屋があり、通路の先には二階へ上がる階段がある。二階に上がり奥へ進めば、木製の質素な扉が右手に現れる。  そこが、サルヴァの仕事場である執務室だ。
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