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 中へ入れば当然誰もおらず、静かな空間にサルヴァの形式的な挨拶の言葉がひんやりとした空気に霧散する。  執務室の入口正面と左右の壁には、壁を半分ほど埋める高さの本棚が並び、書類や参考資料、書籍などが保管されている。室内の中央には三つの頑丈そうな木製の事務机が向かい合うように配置されており、机と机の間は人が通れる程度の十分な距離が空いている。  サルヴァは入口と対面している自席へ近づき、机上に置かれているトレーに手を伸ばす。昨日仕事を上がるときには空だったそこに、クリップでまとめられた書類の束がいくつか入っていた。  椅子に座ると、サルヴァは慣れた手付きで、束ごとに書類をめくっていく。書面には南方面や西方面の大陸にある街の名が記されている。会長代理として署名されている名前は、南西それぞれに出向いていた商船二艘の船主のものだ。書類の日付と出航していた船の予定を考えるに、夜中や夜明け前に帰港したのだろう。  内容に軽く目を通しながら、地域ごと、書類の種類ごとに分けて、新たなクリップでさらにまとめていく。  基本的に業務は三人で、東西南の三つの地域を割り振って受け持っている。その上で、行商人や小売店ごとの必要書類を作成しつつ倉庫にて在庫の管理を行い、海上での交易を支えているのだ。  サルヴァは最後の書類をトントンと机上で揃えてクリップで留めると、席を立ち、まだ来ていない二人の机にそれぞれ担当する書類を置いた。  くあ、とあくびが漏れる。 「……紅茶でもいれるか」  サルヴァは部屋の奥の給湯室でやかんを火に掛けてから再び自席に戻ると、お湯が沸くまで手元の書類の確認作業を進めていった。  ガチャ、と扉の取っ手が回る音にサルヴァは書類から顔を上げた。扉を開けて室内に入ってきた人物が、「あらぁ?」と驚いたように声を上げた。  耳の下辺りで一つに結ばれたふわふわと癖のあるブロンドヘアーが、傾げた首にあわせて揺れる。 「サルヴァくん、早いねぇ」 「おはよ、カナンさん」  うんおはよ~、と間延びした挨拶を返す女性――カナンは不思議そうに目を瞬かせながら薄手の外套を脱いで、入口の脇の壁掛けに掛ける。  彼女の席は、サルヴァから向かって左側だ。 「珍しいねぇ、早起きしたの?」  予想通りの問いに、サルヴァは手短に肯定する。  カナンが来たということは、始業時間まで三十分を切ったのだろう。掛け時計に目をやり時刻を確認したサルヴァは、ふぅと一息吐くとペンを置いて湯気の消えたマグカップに口を付けた。  立ったままトレーへ視線を落としたカナンが、「お?」と声を上げる。そして書類の一番上の束を手に取り数枚めくると、少し驚いた様子でサルヴァを見た。 「これ、やってくれたの?」  そう言って向けられたのは、取引先の情報をまとめた台帳だ。 「ああ、思ったより新規でとってきたみたいで。用意する書類の量えげつないから、地味に時間取られるやつやっときました」 「わ~、ありがとうサルヴァくん。……それにしても多いねぇ。ハリダナでまだご新規とれるとは思ってなかったなぁ。組合通してないもんねぇ、これ」  カナンが受け持つ西方地域――ハリダナ地域は、ディジット商会で最も古い商圏であり、ハリダナでは大規模な商人組合に所属するのが主流であるため、一対一で小売商や行商人と契約を交わす機会は少ない。それでもゼロではないのだが、おそらく先方から声をかけられたか、あえて個別で狙ったかのどちらかだろう。 「資料を見るに、長く手広くやってるとこばっかみたいだから、組合から完全独立してるって感じですね」 「そうだねぇ」 「カナンさん、紅茶飲む?」  椅子に腰を下ろしたカナンから「のむー」と返ってくる。それなら自分の分も入れ直そうとサルヴァが給湯室に向かった、その時。事務室の扉が勢いよく開いた。続いて溌剌な声が室内に通る。 「おはようございまーす!」  鳶色の短髪を逆立たせた青年が快活な笑顔で入ってきた。三人目の事務員であるセンダだ。
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