あたらしい街①

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あたらしい街①

 二両編成のディーゼル列車の振動に身をまかせて、あたしは、車窓の外を流れていく景色をぼうっと眺めている。 ――水町、水町です。 アナウンスが響いて、野生動物みたいにぴくんと背すじを伸ばして席をたった。 列車を降りてホームに降り、外の空気を吸いこんだ瞬間。 「あ」  澄んだ水のきらめきが、頭のなかにふっと浮かんで、そして消えた。 ふいにあらわれた記憶のしっぽ。つかもうとした一瞬のうちに、するりと逃げて引っ込んでしまう。 あのきらめきはきっと、ちいさい頃のものだ。  ママのふるさとであるこの街に、あたしたちはあまり来ない。おばあちゃんの三回忌のあった五年生の冬に来たのが最後。法事はふた駅前の街のお寺で行われたから、ここでは、ばたばたと仏壇とお墓にお参りをしただけだった。  預けられて、一か月ほどここで過ごしたこともある、らしい。だけどその記憶は、ぼんやりとおぼろにかすんでいる。ママが入院した五歳の夏のことだ。 ため息をひとつこぼして、色褪せたベンチに腰掛け、凪子さんを待つ。駅と入っても、ここはただホームがあるだけの無人駅。列車のなかは冷房ががんがんに効いていたけれど、ここは暑くて座っているだけなのにじわりと汗がにじんでくる。  夏だ。日差しはきつくて空は青くて、白い雲が、線路の向こうに広がる街並みの奥の、山の稜線からもこもこ湧いている。夏だ。  一緒に来るはずだったママは急な仕事が入ってしまって、終わるのがいつになるかわからない。だからひとりでここまで来た。ママは止めたけど大丈夫って言い張った。  バスに乗って特急電車に乗って、すこし歩いて、三十分待って古ぼけたディーゼルに乗り継いだ。どきどきした。ずっと引きこもっていたから。  最後に友だちと一緒に出かけたのがいつだったか思い出せない。このままじゃ、ママがいつも言うような、「ジリツした、自分の意見をものおじしないでちゃんと言える子」になんて、永遠になれそうにないから。  リュックから水筒を出してつめたい麦茶を口にふくむ。ステンレスボトルを傾けたときに、からん、と音がした。まだ氷は溶けずに残っているみたいだ。  凪子さんはいっこうにやってこない。約束の時間はとうにすぎているのに、メッセージに既読もつかないし、電話にも出ない。  ポシェットをごそごそ探って、汗ですっかりしわくちゃになったメモを取り出す。  水町一丁目三ー一五、金魚屋敷 しらたま屋  ママの端正な字。 ――凪子のことだから約束をすっぽかすかもしれない。そのときは、金魚屋敷はどこかって人に聞けばいいから。知らないひとに道、聞ける? 危ないかしら。ああ、お土産屋の店員さんとか、そういうひとに聞けば安心かもね。できる? 清(きよ)良(ら)。ああもう、やっぱりママも一緒に行ける日に変更しよう?  早口でまくしたてるママの顔が浮かんだ。あたしは、できるって言い張った。危なくなさそうなひとを選んで道をたずねることも、ひとりで旅をすることも。 ぜんぜん知らない街ってわけじゃないし、あたしだってもう十四になるし、できないはずないじゃない。自分の足でちゃんと立てるおとなになってほしいなんて言いながら、ママはあたしをぜんぜん信用していない。 ――でも。もし、また、あの発作が出たら。  だいじょうぶよ、ママ。学校以外の場所で、発作が出たことなんてないんだから。  学校。まいあがるチョークの粉と、紺色の制服の群れを。思い出すと口のなかにいやな苦みが広がって、あたしはごくごくと水筒のお茶を流し込んだ。冷たさでのどがしびれる。  立ち上がる。行ってみよう。進んでみよう。  あたらしい、あたしの家。あたしの、街。  石畳の道には水が打ってあった。軽自動車が一台やっと通れるぐらいの細い道に、沿うようにして水路がひかれ、びっくりするほど澄んだ水がさらさらと流れている。しゃがんでのぞきこんでみれば、鯉がたくさん泳いでいるのが見えた。朱色と黒の、まだら模様の鯉。色の濃さも柄の入り方も、一匹一匹ちがう。気持ちよさそうに、流れに身をまかせてひれを動かしている。そっと指先を水にひたしてみると、じんとしびれるほどに冷たい。  泳ぐ鯉。ふるい畳のにおい、ゆらめく水面が反射するひかり。 ころんと鳴ったのは、ラムネの瓶に閉じ込められたビー玉。 流れる水の音を聞いているうちに、あたしの五歳の夏の記憶は、手品師がシルクハットから引っ張り出す万国旗みたいに、するするするする現れて、どんどん色づいていった。 あのときラムネを一緒に飲んだ子、あの子の名前はなんだったっけ。すごく元気な女の子で、炭酸がきつくてあたしがぜんぶ飲めなかったラムネを、一気に飲みほしてにっかり笑っていた。毎日のように、一緒に石畳の街を駆けまわって遊んだ。 じっと考え込んでいたら頭がくらくらしはじめて、早く行かなきゃとあたしは立ち上がる。 金魚屋敷。もう、すぐそこにあるはず。 だれかに聞く必要なんてなかった。無人駅に置いてあった観光案内パンフレットに載っている地図を見れば、迷うことなくすいすい歩くことができた。駅からも近かったし。 凪子さんの住む「金魚屋敷」のある通りは、水路の張り巡らされた石畳の通りで、いつの時代のものなのかわからない、木造の、古い建物が立ち並んでいた。そのいずれにも、かき氷ののれんがかかっていたり、珈琲店の看板が出ていたり。 金魚屋敷もそういう古民家のうちのひとつで、亡くなったおばあちゃんが長らくひとりで守っていた。しらたまやお抹茶や珈琲を出す甘味処をほそぼそと営んでいたそうだ。そのお店はいま、凪子さん――ママの妹、あたしのおばさん――が、土日限定・メニュー・数量限定で引き継いでいる。凪子さんは絵を描くのが本業だから、お屋敷はもっぱらアトリエ兼ギャラリーと化しているらしい。 これが、ママに聞いた情報のすべて。ママの実家なのに、どうしてあたしもママもたいして訪れたことがなかったのか、気になったけど聞いてはいけないことのような気もして、結局あたしは口をつぐんでしまったのだった。 ふいに風が吹いて、あたしの、藍色の、ノースリーブのワンピースがさらりと揺れた。中学生なのに地味なのが好きなのねって、よくママにあきれられる。フリルもレースもすきじゃない、シンプルなデザインがすき。色は、青っぽい感じのがすき。 澄んだ水を撫でていく風には、青い色がついている。ような、気がした。 三の、十五。 ここだ。 古ぼけた石塀の向こうから、庭木のみどりがこんもりとはみ出している。門柱の脇に、「アトリエ凪」と書かれた一枚板の看板が立てかけられていて、まるで空手かなにかの道場みたいだ。 おそるおそる敷地に足を踏み入れる。きれいに刈り込まれた庭木の向こうに大きな池があるのが見える。池というより、泉と呼ぶほうがしっくりくるぐらい、水が澄んでいる。 木造の、ふるい二階建てのお屋敷の格子戸は開け放たれていた。「アトリエ凪」と書かれた表札、その下には、「しらたま屋」の表札。アトリエ凪のほうが板のいろが白っぽくて新しい。しらたま屋のほうは、ずいぶんと年季が入っていて、お屋敷の木の壁とも同化している。 凪子さん、いるのかな。いるよね。いくらなんでも、玄関を開けっ放しにしたまま外出するなんて考えられない。ああ、でも、凪子さんだからなあ。 「ごめんくださーい……」  格子戸に手をかけて、おそるおそる、声を出してみた。返事はない。 思い切って土間に入ってみる。凪子さんのものと思しき下駄が、無造作に脱ぎ捨てられていた。まるで、やんちゃな男の子が「ただいまー、おやつおやつ」って言いながらどたどたと駆けあがったって感じ。 「ごめん、ください……」  もう一度呼びかけてみるけど、どうしても、声がかぼそくてさいごは消え入りそうな感じになってしまう。もっと大きい声で話してって、むかしからママや先生に言われていた。だけどどうしても治らない。どうすることもできずに、あたしは狭い土間をうろうろした。  だって。いくら、血のつながったおばさんが住んでる家で、これからあたしが住むことになる家だからって、勝手にあがりこむのは気が引ける。でも凪子さんは気づく気配もないし。  その時、背後に、すっと何か大きな影が立った。  だれか来た。どうしよう、お客さん?  反射的に、からだがかちこちに固まってしまって、あたしは振り返ることができない。 「あんた、ここに用?」  男の子の、声だ。男のひと、じゃない。男の子、しかも同い年くらいの。 「あんた」って、あたし?  男の子はとまどっているあたしの隣をすっと通り抜け、ビーサンをぬぎすてていとも簡単に家にあがった。 「おーいっ! 凪子っ! 起きろーっ!」  奥のほうへむかって、大声を張り上げる。 あっけにとられていると、男の子はあたしのほうを向いた。 「しらたま屋なら今日はもうとっくにおしまいだよ。吊り下げ旗、なかったろ?」 「あ、あの」 「あー、それともあれ? 凪子の絵を観にきた?」 「えと、あたし」  面長の顔、短い黒髪。すずやかな目元。グレーのロゴ入り(LOOK AT ME! だ って。あたしなら着れない)のTシャツにジーンズ。背が高くて、上り框の上からあたし のことを見下ろしているのに、ふしぎと威圧感がない。それに。 「あれ? あんた……。どっかで、会ったこと、ある?」  あたしが感じていたことを、そのままそっくり彼が口にしたものだから。びっくりして、餌をもらうときの鯉みたいに、口をぱくぱくさせて慌ててしまった。  だれ? だれだっけ。この子、どこかで見たことがある。 「かえでー、うるさーい」  と、家の、奥のほうから不機嫌な声が飛んできた。 「やっと起きたか」  なぞの男の子がつぶやく。深緑いろの作務衣姿の凪子さんが、大きなあくびをしながらのっそりとあらわれた。 「せっかく気持ちよく寝てたのに……って。あれ?」 「あの。凪子、さん。清良です。おひさしぶりです……」 「あーっ!」  ひとえの、つぶらな目を、大きく大きく見開いて、凪子さんは雄たけびをあげた。 「今日だったっけ今日だったっけ! すっかり忘れてた! ごめん! ほんっとうに、ごめんっ!」  両手を合わせて「ごめん」を十回ぐらい連呼したあと、あがってあがって、とあたしに手招きした。ほっぺたについた畳のあとが赤くなっている。  スニーカーを脱いで、そろえて、おじゃましますとつぶやいてから畳をふむ。 男の子が、あたしの顔をまじまじと見つめている。な、なに? 「きよら? って、言うの?」  わけもわからず、うなずく。確かにそんなにありふれた名前じゃないけど、そこまで派手で目立つ名前ってわけでもないのに。 「あー。九年ぶりかー。あんた達が会うのも」  凪子さんがにかっと笑った。九年ぶり? 初対面なんだけど。 「ここで、ずーっと一緒に遊んでたもんね。清良、おぼえてる? 楓だよ」  楓。  きらめく水面。みずいろの瓶のなかでたちのぼるラムネの泡。転がるビー玉の音。 「楓、ちゃん……?」  まさか。まさか、だって。楓ちゃんは女の子だったはず。 だけど、「楓」くんは、 「清良か。やっぱり!」  すっごく明るい声をあげた。のどのつっかえがとれたみたいなすっきりした顔で、満面の笑みをうかべて。 「すげえひさしぶり! うわー、言われてみれば、おまえ、五歳のときのまんまじゃん。うわあーっ」  いきなり「あんた」から「おまえ」に呼び方が変わった。「あんた」も、考えてみれば初対面の相手にたいしてかなり失礼なのに。「みょうに馴れ馴れしいひと」へと、さらに悪い印象がプラス。そんなあたしの気持ちには、みじんも気づく気配もなく。 「凪子。ひょっとして、あたらしく同居する相手って、清良?」  なんでそんなにうれしそうなの? 「そういうこと」  にんまりと凪子さんは笑って、 「仲良くしてやってな。楓」  って。楓くんの肩を、ぽんぽんと叩いた。  困るよ。勝手にそんなこと頼まれても。困るよ……。
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