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あたらしい街②
回り縁のすぐそばに、澄んだ水をたたえた池がひろがっている。通されたお座敷の、障子戸が開け広げられているから、池を泳ぐ鯉たちや水草がたゆたうさまを眺めることができた。
落ち着かない。飴色の、年季の入った座卓をはさんで向かい合わせに座った楓くんは、片手でほおづえをついて、あたしの顔をにこにこと眺めている。
「お待たせ」
お盆を持った凪子さんがやってきて、あたしはやっと、ほっとして息をつくことができた。
「きょうの分はもうおしまいなんだけど、特別。ていうかおわびね。透子さん直伝の、金魚屋敷特製・蜜かけしらたまでーっす」
「ラッキー。おれの分まである。清良、さんきゅーっ」
勝手に呼び捨てにしないでほしい。でも、言えない。
「いただきます」
金色のシロップにふわふわのしらたまが浮かんでいる。匙ですくって口に入れれば、はちみつのやわらかい甘さと、つるりとしたお団子の感触が心地いい。
「おいしい。これ、しょうがも入ってるの?」
「よくわかったね、さすが清良。透子さんの孫! この蜜はね、ふつうのはちみつと、しょうがを漬けたはちみつをブレンドしてね、さらにね、」
「うまいけど。透子ばあちゃんのしらたまには、まだ及ばないな」
楓くんが凪子さんのせりふをさえぎった。すっごい上から目線。
「まーね。そりゃそうだよ。子どものころお母さんの手元を見てたってだけで、ちゃんと習ったことはないわけだし。レシピは帳面に残ってたけど」
素直に凪子さんはみとめた。
グラスに注がれたお水を、飲む。つめたくておいしい。まるみと、ほんのり甘さがあるような。それでいてすっきりとして、すうっと喉の奥に消えていく。
「ここの湧き水だよ。家の裏から引いてる。外の池も湧水だし、というか、この界隈の水路の水はぜんぶ湧水なんだよ」
凪子さんは得意げだ。さらに、楓くんが、
「水町通りにも、たくさん水飲み場があるよ。もちろん湧き水のな。長寿になるとか言われてるのもあるし、えんむすびの井戸もあるし。そのうち連れてってやるよ」
なんて続ける。
「ふーん。えんむすびの井戸」
「何にやついてんだよ凪子」
「べっつに」
「凪子が仲良くしてやってくれっつったんだろ?」
それにしても、楓くんが、あの「楓ちゃん」だなんて信じられない。
おぼろげな記憶をたどってみる。楓ちゃんは、まるっこいボブカットで、まっくろに日焼けしていた。言われてみればボーイッシュな格好ばかりしていた気がするけど。
楓くんは凪子さんのことも呼び捨てだし、亡くなった透子おばあちゃんとも親しかったみたい。まるで楓くんのほうが、この家のほんとうの孫みたいだ。
あたしには、おばあちゃんのしらたまを、食べた記憶がない。
空があかね色に染まるころになって、楓くんは帰っていった。水町通りのいちばんはじっこにある洋食屋さんが、楓くんの家なんだそうだ。
「そろそろ忙しい時間帯だし、ちょっとは手伝ってやったら?」
なんて凪子さんが言うと、「うっせ」と楓くんはかるくパンチをかますふりをした。
台所から、お味噌汁のいいにおいがする。ごはんの炊けるにおいも。ごくふつうの電子レンジやオーブントースターや冷蔵庫が、なんだかこの古民家には似つかわしくなくって、ちぐはぐの印象をうける。だけどおもしろい。
疲れてるだろうし休んでな、と言われたから、素直にあまえて、あたしは台所そばの六畳間にしゃがんで、ちゃぶ台にぺたんと顔をくっつけて凪子さんのことをぼんやり見ている。
「……だいじょうぶだよ、来なくても。どうせ来週休みとって来るんでしょ?」
凪子さんは、台所で立ち回りながら電話でママと話している。そういえば、着いたらちゃんと連絡入れてねって言われてたのに、すっかり忘れてた。
「うん、うん。心配しすぎ。うまくやれるよ。さっそく友だちもできたみたいだし」
そんなことを言いながら、凪子さんはあたしに片目をつぶってみせる。まさか「友だち」て、楓くんのこと?
代わる? と。凪子さんがあたしに目で合図して、あたしはぶんぶんと首を横に振った。連絡しなかったことを怒られるかもしれないし、「友だち」について、根ほり葉ほり聞かれても困ってしまうし。
にやりと笑うと、凪子さんは通話を終えた。
「あー。あいかわらずパワフルなおかーさんだわ。疲れちった」
おおげさに自分の肩をぐるぐる回してみせる。
「夕ごはんさ、メインのおかずは今坂屋の揚げ鶏にするから。超うまいよ。買ってくるから留守番頼むね」
「うん」
「そうそう。清良の荷物だけど、二階に運んであるから。わたしのアトリエのとなりの部屋ね、あんたの部屋にって空けてあるから。疲れてるなら荷ときは明日ゆっくりやりな?」「……うん」
たしかに、疲れていた。
あたしの荷物、か。前もってママが宅急便で送ってくれていたぶんだ。
凪子さんが出かけて、ひとりになったあたしは、なんとなく縁側に座って澄んだ池を眺めた。
ほんとうに、きれい。いつまでだって眺めていられる。風がないから、泉は、鏡みたいに、夏の明るい夕焼けの空をうつして光っている。
ぱしゃんと鯉がはねて、水面に波紋をつくった。
ここの池にはたくさんの鯉が泳いでいるけど、金魚はいない。よーく見たらいるのかもと思って目をこらしてみるけど、見つからない。
へんなの。金魚なんてどこにもいないし、家の中で飼ってるわけでもない。なのになんで、「金魚屋敷」なんて屋号なんだろう。
ふわりと、風がふいた。前髪がさらりと揺れる。
七月のなかば、夏休みに入ったばかり。なのにこのお屋敷は、ぜんぜん暑くない。ううん、それなりに暑いことは暑いけど、まったく蒸し蒸ししてなくて、空気がさらりとしている。エアコンなんて見当たらない、みどり色の羽根の、レトロな扇風機があるだけなのに。しかも回ってないし。
風の通り道がある感じ。つめたい泉のうえを通ってきた風が、そのまんまお屋敷に入って、吹きぬけていくんだ。
きもち、いい。
ころんと、横になる。ふるい木の床が肌にしっとりなじんで心地いい。
なんだか、まぶたが重い。いけない、留守番をまかされているのに、こんなところで眠っちゃだめ。眠っちゃ、だめ……。
明るい光がすじとなって射しこんでいる。あたりは澄んだみずいろで、ラムネみたいなこまかい泡がたちのぼって、はじけて消えていく。
あたしは赤いひれをゆらゆら動かして、泳いでいる。水面へ、行きたい。水面のむこうはきっと、まばゆい光のあふれる世界。
泳ぐ。泳ぐ。だけどたどり着けない。たくさんの金魚たちが、きれいな着物をはためかせながらあたしを追い越していく。追い越して、あたしのことは振り返らずに、笑いさざめきながら。
たどり着けない。真っ赤なひれに水がまとわりついて、さっきまでさらりと澄んでいた水はゼリーみたいに固まって、あたし、動けない。もう泳げない。
息が、できない。
ぷくり、と、金魚はひっくり返る。真っ白いおなかが水面からちらちらのぞいている。
動かない。固くなった金魚。ひっくり返って、戻らない。
ぱちりと、目を開けた。背中に、びっしりといやな汗をかいている。
夢を、みていた。
現実に帰ってきても、ひっくり返った金魚の残像が、まだあたしの目の前にある。
――いち、にい、さん。ゆっくりと頭の中で数を数えて呼吸を落ち着けた。大丈夫、ここはあたしの、あたらしい家。
そっと身を起こす。日は沈んで、庭木のむこうの空はうすいむらさきに染まって、白い三日月がのぼっている。
ふと、なにかの気配を感じた。
凪子さん? 戻ってきたの?
――ちがう。
視界のはしでゆらめくのは、鮮やかな朱いひれ。澄んだ水のなかでひらひらと舞う、金魚の、ひれ。
「だれ? だれか、いるの?」
振り返る。だれも、いない。
がらんどうのお座敷。気のせいかと、ほうと息をつく。と、ふふふっ、と、高い笑い声が耳もとで響いて、はっとして、ふたたび池のほうに向き直った。
「あ。あなた、だれ?」
女の子がいた。
つややかなおかっぱ頭、ぱつんと切りそろえた前髪。白地に朱い大きな花のもようの散った浴衣を着ている。目がぱっちり大きくて、肌が白くて、まるで日本人形みたい。
「さらさ」
女の子は、言った。ころころした声。小首をかしげると、さらりと耳横の髪がゆれた。
「どこの子? いくつ? ママか、パパは?」
「あたしは、ここの子。いくつ、に、みえる?」
くすくすとわらう。ここの子、って。凪子さんは独身だし、親戚にこんなちいさな子がいるなんて聞いたことない。
「いくつにみえる?」
「い、いつつ? くらい、かな」
女の子は、笑っているだけ。
「ちがうの? むっつ? ななつ?」
「ななつ」
繰り返すと、すうっと、女の子の足がのびた。あっ、と声をあげそうになってしまう。背が。背が、のびた?
「あなたは、だれ? いくつ?」
さっきよりちょっとだけ落ち着いた声音で、女の子はあたしに問いかける。
「あ。あたし、は、……。清良。えっと、もうすぐ、じゅうよん」
女の子――さらさちゃんは、きよら、と小さくつぶやくと、
「じゅうよん」
と言って、そっと目をとじる。すると、また。すううーっと、さらさちゃんの足がのびて、手ものびて、ちょっとだけ胸もおしりもまるくなって、つまり。成長、した。
目の前にいるのは、絶世の美少女。
どういうこと? まるでイリュージョン。
そうだ、まだあたしはきっと、夢のなかにいるんだ。そうに決まってる。ありえない。身じろぎもできずにいるあたしの顔を、ぞっとするほど妖艶な瞳でねめつけて、袖で口をかくしてくすくすと笑う。
「さらさは、いつつ」
そう言って、しゅるるると、最初の姿にもどった。
がらりと格子戸の開く音がして、反射的に玄関の方角に目をやった。ただいまーと、のん気な凪子さんの声。やっと帰ってきてくれた。
さあっと、風がふく。
またね、と耳もとでささやく声がして。そのあまやかな声に一瞬だけ頭がぽうっとなって。はっとわれに返ると、女の子の姿は消えていた。
消えて、いた。
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