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金魚わらし②
金魚わらしって、なんだろう。お屋敷の通称と、関係あるのかな。
石畳の通りはずっと水の音がさらさら流れていて、日差しは強いのに耳のあたりだけはすずやかだ。音のちからって、すごい。
ストローハットを、深くかぶり直す。日焼けしてしまいそう。
「清良。こっち、右に曲がるぞ」
あたしの前を歩いていた楓くんが立ち止まって、振り返る。白いTシャツにシンプルな黒いハーフパンツ。そういえば部活帰りって言ってた。
「それ、学校指定の?」
「ううん、学校用のは汗でびしょびしょになったからさ、クラブハウスでシャワー浴びて着替えた」
「部活って、なに」
「陸上」
「へえ。足、速いんだ」
いかにもって感じ。小さいころも活発ですばしこかった気がする。
だけどやっぱり釈然としない。
「まさか男の子だったなんて」
「それだけどさあ」
楓くんが頭の後ろをぽりぽりと掻いた。
「清良がさ、保育園で男子に叩かれたりしてたせいで、男子を怖がってるっつって。それで凪子とばあちゃんが俺のこと女って吹きこんでたらしーよ。凪子が言ってた」
「あ。そう、なの……?」
「人形遊びとか、けっこうおもしろかった」
そんなことも、いっしょにしてたんだ。
「おれも自分のこと『かえで』とか言ってたらしいしさ。あー、五歳児だったとはいえ自分のこと名前呼びとかイタイわ。天然キャラのアイドル女かっつーの」
ぷっと噴き出してしまう。「こら」と楓くんがあたしをこづいた。
ほんと、おかしい。あたしったら、そんな小さいころから、なにひとつ進歩がないんだ。
「清良?」
「……ううん。なんでもない」
ちくりと、胸の奥が疼く。
「辛気くさい顔すんな。着いたぞ、らむね屋」
らむね屋という看板がかかった、町屋風のお屋敷。すずしげなみずいろの暖簾がかかっている。水路をわたるとすぐに出入口があって、引き戸の横で「氷」の吊り下げ旗がひらひら揺れていた。水路のつめたい清い流れのなかには、ラムネの瓶の入った竹ざるがゆらゆら泳いでいる。
「ここの水で冷やしたラムネ、うまいよ。野菜でもなんでも、冷やすとすごくうまくなる」
楓くんの後について、お店に入る。レジの向こうで、ランニング一枚の白髪のおじいちゃんがうたたねしながらラジオを聞いている。あたしたちを一瞥すると、「らっしゃい」としわがれた声で言って、またすぐにうとうとしはじめた。
レジのすぐ脇には、アイスキャンデーの詰まった冷凍ケース。木の棚にたくさんの駄菓子が並んでいる。ちいさなお座敷もあって、ちゃぶ台や飾り棚に、手作り風の和雑貨がディスプレイされている。
お客さんは今あたしたちだけ。靴を脱いであがって見てもいいんだよと楓くんが教えてくれた。
「かわいい。これも、売り物なの?」
「もちろん。そうそう、凪子の絵はがきとイラストも置いてあるよ」
「へえ……」
風がふいて、お座敷の軒先にいくつも吊り下げられた風鈴がいっせいに鳴った。凪子さんの絵や、とんぼ玉のアクセサリーや、和布のがま口ポーチや巾着を見てまわる。
「このブレスレット、かわいい」
白と水色のとんぼ玉に、赤いもようが散ってて。よくよく見ると、そのもようは金魚のかたちをしている。
「女子ってこういうの好きだよなー」
「どうしよう、買おうかな」
「どーすんの」
「ん。来月、お小遣いが出たら考える」
「売り切れてるかもよ。ぜんぶ、ハンドメイドの一点ものらしいし」
「えーっ」
思わず大きな声をあげると、楓くんはけらけらと笑った。
「それより喉かわかね?」
お座敷からおりてサンダルをはく。楓くんはスニーカーだ。かかとのところがつぶれてる。走るときの靴は、しょってる大きなリュックに入ってるんだろう。
楓くんはレジ奥のおじいちゃんに「起きろよ」と声をかけた。
「じいちゃん寝るなよ、不用心だな。ラムネ二本ちょうだい」
「なんだ、誰かと思ったらキッチンメイプルの坊主じゃねえか。いっちょまえにガールフレンドつくって、生意気な」
「そんなんじゃねーよ。こいつは、そこの金魚屋敷の凪子の姪。ついこの間引っ越してきたから、いろいろ案内してやろうと思って」
へいへい、ラムネラムネ、とおじいちゃんはうたうように言って外へ出た。
水路を流れる湧き水で冷やされたラムネ。タオルで水をぬぐうと、はいよとおじいちゃんは渡してくれた。
「透子さんとこの孫か。じゃあ、今日だけサービスだ。言われてみれば、よく似てるな」
「じいちゃん、おれのは?」
「ついでにサービスしてやるよ。そのかわり、この子に良くしてやりな」
「透子ばあちゃんさまさまだな」
「いい女だった。俺よりさきに逝くとはなあ」
おじいちゃんは深いため息をつくと、ラジオのボリュームをあげた。プロ野球のデーゲームの中継みたいだ。打ったあ、と、アナウンサーの興奮した叫び声が響いた。
らむね屋から少し歩いた先にある、休憩スペースのベンチに腰かけて、ラムネを飲む。屋根があって影になっているからすずしい。
帽子をとって膝のうえに置いた。足もとにも水路があるから、サンダルを脱いでつま先をひたしてみる。真夏とは思えないほどの冷たさ。
ころころとラムネ瓶のビー玉が鳴る。みずいろのガラス瓶はきらきらと光って、楓くんの、少し汗ばんだのどが動く。のどぼとけがあるのが、ほんとうにふしぎ。
「清良。おまえ、炭酸ぜんぶ飲めるようになったの?」
「なったよ」
おぼえてるんだな、楓くんは。あたしはほとんど忘れていたのに。
五歳の夏。
パパが亡くなって、ずっと気を張っていたママは、ついに倒れた。しばらく入院することになり、どうしようもなくなって、疎遠になっていたおばあちゃんのところにあたしを預けたらしい。ママと離れて心細かったか、とか。パパが亡くなってショックだったとか。そういうことはぜんぜん覚えてなくて、あとで凪子さんから聞いた話をもとに、自分やママがどんな感じだったのか想像してみるけどうまくいかない。
「らむね屋のじいちゃんさあ。透子ばあちゃんのこと好きだったんだな」
「そうみたいだね」
いい女だったって、ほんとかな。あたし、よく似てるって。
「あたし、おばあちゃんのことも、あんまり覚えてない」
「透子ばあちゃんはな。ちゃきちゃきしてるかと思ったら、みょうに抜けてることもあって。いきなりふしぎなこと言い出すときもあるし、おもしろいばあちゃんだったよ」
「ふーん……」
やっぱり楓くんのほうがおばあちゃんのこと、よく知ってる。
ラムネの瓶のなかで、こまかい泡がたちのぼっては消えていくのをじっと見つめていたら、いきなり楓くんの手があたしの頭をわしわしとかき混ぜた。
「ちょ、なにするの!」
「清良は相変わらずチビだなーって」
「なによ! 自分は身長伸びたからって」
楓くんがほんとうにあの「楓ちゃん」なのか、わからない。そもそも、五歳の「楓ちゃん」のことだって、かすみみたいなぼんやりしたイメージしかあたしには残ってない。
だけど。こんなふうにすんなり会話が流れていくのも、気負わずにいろいろ話せるのも。やっぱり、脳みその奥の奥のひきだしに、ちいさいころの記憶がちゃんと仕舞われているからなのかな。
なんてことを、考える。
楓くんに手を振って金魚屋敷に戻ると、凪子さんがお座敷に大の字になってお昼寝していた。
「ただいま、凪子さん」
「ん。んん……」
「凪子さんってば」
凪子さんの肩を揺すると、やっと目を開けてくれた。
「あー。清良か。一瞬、更紗かと思った」
どきんとした。更紗って、あの、花もようの浴衣のふしぎな子。
「更紗の夢を見ていたんだ。ずいぶん、ひさしぶりだ」
凪子さんはゆったりと身を起こすと、うーん、と両腕をつきあげて伸びをした。
「あ、あの」
「会ってみる? 更紗に」
立ち上がって歩き出した凪子さんの後ろを、ただ、ついていく。階段をのぼって、あたしの部屋の奥、格子戸をあけて凪子さんの作業場へ。
はじめて入る。凪子さんは、ひとりきりじゃないと集中できないからって、絵を描く姿を誰にも見せない。夕鶴ねあの子は、と、ママによくからかわれていた。
六畳のたたみの部屋の角っこにベッドが置かれていて、まんなかにはあめ色の大きなテーブルがある。この上で作業をしているみたい。ラベルの張られた平たいアルミ缶がたくさんあって、そのなかに絵の具のチューブがたくさん放り込まれている。色別だったり、ラベルのデザインが同じもの同士だったり。これは、メーカー別ってことなのかな?
大きなガラス瓶には、さまざまなサイズの筆がつっこまれている。テーブルのそばには、紙が貼られた木のパネルが、イーゼルに立てかけられている。テーブルや椅子やたたみのどこそこに、絵の具の染みがついていた。
「綺麗に片付けすぎると落ちないんだよね。おかーさん、怒ってるだろうな」
凪子さんは窓の外の空を見やって、つぶやいた。
壁には凪子さんの描いた水彩画や、鉛筆画が貼られている。資料にするのかな、引き伸ばした写真もいくつか。いずれにも、金魚やメダカや熱帯魚が描かれている。
「更紗、ちゃん……は、どこにいるの?」
「ああ。これだよ」
「か、掛け軸?」
あまりに凪子さんの部屋に溶け込みすぎていて気づかなかった。凪子さんの作品にまぎれて飾られている絵。水彩じゃなくて日本画。ふるい、掛け軸。
立派な尾ひれを揺らめかせて泳ぐ、金魚の絵。白に鮮やかな朱の更紗もよう。すずやかな流れを泳ぐ、ひとりぼっちの、金魚の絵。
「これが、更紗」
「絵なの?」
「絵なんだよ」
凪子さんはくすりとわらった。
「作者は不明だけど、たぶんこの屋敷のゆかりの人だね。わたしのお母さんもばあちゃんも子どものころ、わらしに会ったって言ってた。ここの屋敷が『金魚屋敷』なんて呼ばれるいわれは、これだよ。この絵にまつわる、悲しいお話もある」
「ちょっと待って。なに言ってるの?」
「なにって。掛け軸の金魚が化けて出てくるんだよ」
そんな。そんなことを、夕ごはんの献立を告げるときとおんなじテンションでさらりと言われても。
「ありえないよそんなこと」
「だってそうなんだもん」
「だとしても、どうして」
「友だちがほしいんだよ。あたしも昔、友だちだったんだけど。見えなくなっちゃったから」
だから、更紗のためにたくさん魚の絵を飾ってるんだよ。と、凪子さんはにっと歯をみせてわらった。
凪子さんは小さいころから金魚わらしが見えていた。あたしのママには見えてなくて、よく「うそつき」と言われてけんかしていたんだそうだ。
うそつきじゃないもんと泣いていたら、おばあちゃんがこっそり教えてくれたんだって。
――金魚わらしはこの家に住んでいるけど、どういうわけか、見えるひとと見えないひとがいる。だからむやみに「いるよ」とひとに告げてはいけないよ。そしてね。ある日突然、見えなくなる日がくるんだ。さよならの日が必ずくる。だからわらしは、いつまでたってもひとりぼっちなのさ。
「お母さんも見えていたの?」と聞き返したおさない凪子さんに、おばあちゃんは、ふふふと含み笑いをするだけだった。
「お母さんも更紗と遊んでたんだろうね」
凪子さんは言った。いとおしそうに、金魚の掛け軸を撫でながら。
「わらしと言葉を交わせるようになったのは、十二歳のとき。そのとき名前をつけてあげた。名前がないと不便だろう?」
「悲しい話っていうのは?」
「それはまた、おいおいね」
「見えなくなったのは、いつ……?」
凪子さんはその問いにはこたえず、ただじっと、ひとりぼっちで泳ぐちいさな金魚を、見つめていた。
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