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揺れているのは、水①
「では、清良さんは当面は、あのお屋敷でおばさまとふたりで暮らす、と」
「ええ、そうです」
蝉の声が夏休みの教室に入り込んで響いていた。二学期から通う教室は三階にあって、窓からグラウンドが見下ろせる。部活をしている生徒たちがくるくるトラックをまわっているのが、ミニチュアの人形みたいに見える。
「とにかく内気で、引っ込み思案な子で。おとなしくて、気の強いタイプの子にはっきりとものを言えないんです。小さいころからそんな感じで……」
ママが机から身を乗り出すようにしてせつせつと訴えている。この机も、あたらしいクラスメイトのものなんだと思うとからだが強張ってしまう。
「そうなんですか」
黒縁の四角いめがねをかけた若い男の先生が、にこやかに笑みをうかべながらうなずいている。やさしそうな先生だけど、あんまり興味はない。どんなにいい先生でも、生徒たちのあいだの問題に割って入るのは、むずかしいことだってわかってる。だって世界がちがうひとだもん、おとなは。だから、さいしょから頼りにするつもりはない。
「とにかく、なにかあれば、小さなことでも私やこの子の叔母に連絡していただけませんか? お忙しいのは重々承知しておりますが。先生とコミュニケーションを密にして、いっしょにこの子を守っていきたいなって思ってるんです」
「ええ、もちろん私もそのつもりです」
壁の色も時計の位置も床のつやも前の学校とはちがうけど、おんなじだなって思う。どこかに「学校」とか「教室」っていう型みたいのがあって、そこに材料を流しこんでつくっているんじゃないかなって思ってしまう。それぐらい、空気が似ている。
「……ほんとうは私もこの子と一緒に引っ越してきたかったんですけど、どうしても、仕事が。それなりに責任のある立場におりますし、生活のこともありますし」
「お母様も苦渋のご決断だったのでしょう? そんな顔なさらないで。清良さんが学校生活に馴染めるよう、全力でサポートしていきますので」
ぴりっ、とホイッスルが鳴る。楓くんは陸上部だって言ってた。あの、トラックをぐるぐるまわる集団のなかに、楓くんもいるんだろうか。短距離なのかな長距離なのかな。うーん、きっと短距離。あれは短距離のキャラだ。
「よろしくお願いいたします。ほら、清良も」
ママにこづかれて、あたしはあわてて先生におじぎした。
「すみません、ほんとにぼーっとした子で」
ママが笑った。先生も笑って、
「よろしくな、清良さん」
と、あたしに右手を差し出した。
吹奏楽部のロングトーンの音が聞こえる。のびやかな金管楽器の音。ゆっくりと階段を降りながら、首の後ろに浮かんだ汗をハンドタオルでぬぐった。
「やさしそうな先生じゃない。前の担任の先生とは大違い」
「そうだね」
握手はちょっといやだったけど。先生とはいえ、初対面の男のひとと握手なんて抵抗がある。
「なつかしい。ママもここに通ったの。ずいぶん小さく感じるなあ」
そっか。ここ、ママの母校か。当然、そうなるよね。
「楽しかったなあ。ママ生徒会で書記しててね、バレー部でも副部長してたし、忙しかったけど充実してた。悩んだこともあったけど、なんていうか、きらきらしてたなあ」
ふうん、と気のないあいづちをうつ。
きらきらした中学生活なんて、物語のなかの世界だ。すぐそばに存在しているらしいのに、けっしてあたしには開かれない扉。転校したって変わらないと思う。だってあたしはママとちがって、内気で引っ込み思案ではっきりものを言えなくてぼーっとしてる子なんだもん。あたしみたいな子、みんな見てていらいらするはずだもん。
ママだって。きっと。
「ママ。今夜は泊っていくんでしょ?」
玄関ロビーで来客用スリッパを脱ぐ。あたり前だけど、むしむしと暑い。さらりと風が吹き抜ける金魚屋敷とは全然ちがう。
外にはまぶしい七月の光があふれている。葉桜の濃いみどりが、空の青が、目に刺さって痛い。
「ママね。今日一日しかお休みがとれなくて」
「そんな申し訳なさそうな顔しないで。しょうがないよ、平日だし」
「ごめんね」
そっか。ママ泊まらずに帰るんだ。
どういう顔していいかわかんない。さびしくないわけじゃないのに、どこか、ほっとしているなんて。
あたしのほうこそ、ごめんなさい。
金魚屋敷に戻ると、ちょうど絵を見に来ていたお客さんが帰ったところだったみたいで、凪子さんはお茶のグラスを片づけているところだった。
「お帰り。学校どうだった?」
「うーん。普通」
「普通ってなによ普通って」
ママがクールに突っ込みをいれた。だって、それ以外になにも感想はないんだもん。夏休みの、先生しかいない教室をみたって、うまくやっていけるかどうかなんてわかんないに決まってる。重要なのは……。クラス、メイト。なんだし。
「お姉ちゃん、何時まで居れるの? お茶ぐらい飲んでけるんでしょ? しらたま作ってあげるよ」
「そうね。あと一時間ぐらいなら」
腕時計を見やったあと、ちらりとあたしの顔を見て、あたまをぽんぽんと撫でた。
凪子さんのしらたまを待つあいだ、ママはまわり縁にすわって、じっと鯉の泳ぐ湧水の池を見つめていた。みずいろのストライプの、かっちりとしたシャツを着たその背中が、なんだかあたしの知らないママのものみたいに見えて、こころもとなくなる。ママは今、ママにしか知らない思い出の池を泳いでいるような気がして。
「おまたせ」
凪子さんが、ママとあたしのあいだにお盆を置いた。
ちいさなガラスの鉢のなかの蜜かけしらたま。あたしは、まるっこい冷茶グラスに注がれた水出しの煎茶を飲んだ。なんていうか、まるみのある味。やっぱりここの水がいいのかな。
ママは無言で、凪子さんのしらたまを食べている。
「どう? やっぱりお母さんの味とはほど遠いよね」
この前、楓くんには容赦なくだめ出しされてた。だけどママは首をゆっくりと横にふる。
「たしかにまだ遠いけど……。でも、お母さんの味と、ちゃんとつながってる」
ママはそっとガラス鉢をお盆の上に置いた。
「やっぱり凪子にしか無理ね」
なにが、と聞きたかったけど聞けなかった。ママのため息のわけも。
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