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揺れているのは、水②
ママが帰ってしまったあと。凪子さんは、「外に食べにいこっか」とあたしを誘った。
街はもう夕暮れのオレンジに包まれている。水路の流れを追いかけながら歩く。道すがら、ひしゃくとコップの置かれたちいさな水飲み場で、竹の樋から流れる清水をいただいた。のどがひんやりとうるおって、おいしい。
「ねえ凪子さん、どこ行くの」
「キッチン・メイプル。オムライスが絶品なんだよ」
「それって……」
「楓んち」
やっぱり。この間、らむね屋のおじいちゃんがちらっと言ってた。
「楓くんの名前って、お店のなまえが由来なの? それとも逆?」
「うーん。キッチン・メイプルは、いまのご主人、楓のお父さんで三代目のはずだから、ま、お店の名前からとったって考えたほうが自然だろうね」
「へえ。すっごく期待されてるって感じだね」
ザ・跡継ぎ、みたいな。逃げ場のない一本道のレールみたいな。
でもさー、と凪子さんはくくっとわらう。
「楓は洋食より渋い和食が好きなんだよ? 魚の煮つけとかおひたしとかさあ。うけるよな。メイプルのご主人も、すでにいろいろあきらめてるよ」
「ふうん」
ほら着いたよ、と指をさされた先には、煉瓦造りの、植物のつるがたくさんからまったちいさな建物があった。おとなりの理髪店の、ぐるぐる回るトリコロールの棒みたいなの(なんていう名前なんだろう)のとなりに、ちいさな「キッチン・メイプル」の、年季の入った白いスタンド看板。ガラスのウインドウの向こうに、ナポリタンやオムライスやハンバーグなど、たくさんのおいしそうなサンプルがメニューがわりに並んでいる。
店内には、オレンジ色のギンガムチェックのクロスのかかったテーブル席が五つ。二人掛けの小ぶりなテーブルにつき、水を給仕してくれたおばさんに、凪子さんはオムライスをふたつ注文した。それから珈琲と、あたしにはあまいカフェオレを。どちらも、アイスで。
「さっきのひとって」
おばさんが去ったあと、声をひそめて凪子さんに顔を寄せた。凪子さんはうなずく。
「楓の、お母さん」
「へえ……」
やさしそうなひとだった。ふくよかで、あったかい笑顔を絶やさず浮かべている。
「お父さんのほうは厨房にいるよ。しぶいイケメンだよ、イケメン」
くふふと凪子さんがわらう。
「イケメンだったらなんなの?」
「楓はお父さん似だからねー。将来が楽しみだねー」
頬杖をついて、あたしの顔を見て、にーっと笑った。まったくいったい、何が言いたいんだか。
「おまたせしましたオムライスです。っつーか何俺のうわさしてんの? 悪口?」
「あ」
テーブルにオムライスのお皿とサラダの小鉢を置いてくれたのは、楓くんだった。
「エプロンしてる」
「しょーがないじゃん店のなんだから。ていうか何で来たの」
「お、怒ってるの?」
べつに、と楓くんはむくれた。ごゆっくりどーぞ、と言い捨てて去っていく。凪子さんはずっと、何がおかしいのかしらないけど、笑いをかみ殺している。
オムライスにスプーンを入れた。ふわふわとろとろ、半熟に仕上がったたまごが甘いケチャップたっぷりのチキンライスと絡み合っておいしい。
だけど。
「やっぱ来ないほうがよかったんじゃない?」
「なんで。楓は怒ってないよ。見た? 顔真っ赤にしちゃってさー、恥ずかしいんだよ。清良に家の手伝いしてるとこ見られて」
「なんで家のお手伝いがはずかしいの?」
「そういう年頃なんだよ」
凪子さん、たのしそう。
あらかた食べ終えたところで、珈琲とカフェオレが届いた。給仕してくれたのは楓くん。恥ずかしくても仕事はちゃんとするんだ。
「楓くん」
「なんだよ」
「ううん、べつに」
つめたいカフェオレをひとくち、飲む。
「すごくおいしい」
「……まあな」
楓くんはぼそりと言ってあたしから目をそらしたけど、口もとはすこしゆるんでいた。ふうん、自分で淹れたカフェオレじゃないのに褒められるとうれしいんだね。
あまのじゃく。声に出さずにこころのなかでつぶやいて、カフェオレのグラスに口をつけた。その時、カランとドアベルが鳴り、「いらっしゃいませ」というおばさんのほがらかな声が響いた。
ドアのほうを見やった楓くんが、「げ」とカエルみたいな声をもらす。
「げげっ、なんで来るんだよ。じゃな、清良。凪子」
楓くんが奥に引っ込もうとした瞬間、
「あっ、楓だーっ! めっずらしー!」
声が飛んできた。あかるくて良く通る、女の子の声。黄色い声に、さらに金粉をまぶしたような。
「やっば」
楓くんが顔をしかめる。
女の子の集団、いち、にい、……四人いる。その四人が、せまい通路を押し合いへし合いながら、あたしと凪子さんの座っているのととなりの、大きなテーブル席めがけて歩いてきた。
「楓、食べにきたよーっ」
「楓、エプロン似合うじゃん。カーワーイーイーっ」
楓くんはあっという間にかこまれてしまった。
「おまえらはやく座れよ。ほかのお客さんに迷惑だろ」
お客さんは、あたしたちのほかに、おだやかな感じの老夫婦がいる。小さい子どもを連れたわかい家族もいるけど、いまレジでお会計をしているところだ。女子集団は「ごめんなさい」と素直に謝ると、やっとテーブルについた。ぐったりと肩を落として、楓くんはカウンターのほうへ戻って行った。
ちらりと女の子たちを盗みみる。メニューで顔をかくして、ひそひそ小声でおしゃべりしてる。好奇心いっぱいって感じの大きな目が、お店のオレンジいろの照明をうつしてきらきら光っている。うっすらメイクしてるのかな? かわいい。服も、大胆に肩を出していたり、短いチュールのスカートをはいていたり、ラメの入ったミュールを履いてたり。
それにひきかえ、あたしときたら。
白い丸衿のブラウスに紺色のチェックのスカート。まるで制服みたい。
だって。今日は学校に行く日だったから、ママに言われて、ワードローブのなかでも「きちんとみえるもの」を選んでコーデしたんだもん。
「清良? どしたの? 氷溶けてうすくなっちゃうよ、それ」
凪子さんが自分のアイス珈琲のグラスを傾けて、なかの氷がからんと鳴った。
あの子たち、楓くんと親しそうな感じだった。ひょっとして同級生なのかな。
あたらしい学校に通う、同い年の女の子たち。
もう一度、こっそり「きらきら女子」集団をちら見した。瞬間、肩出しトップスの、髪を高い位置でゆるいおだんごにまとめた女の子と目が合った。
「……あ」
とっさにそらそうとしたけど、あからさますぎる気がしてできない。だけどこのままじっと見つめ合ってるのも不自然だし、どうしよう。
いっぽう、肩出しの女の子は、まるで品定めでもしているみたいにじっくりとあたしの顔を見て、ふっ、と笑みをもらした。
何、さっきの。どういう意味の笑顔なの?
女の子は、固まってしまったあたしなんてもう目じゃないと思ったのか、何事もなかったかのように仲間たちのさざめきの中に戻っていった。
「……凪子さん」
「ん?」
「もう、帰りたい」
帰りたい。はやく、水をたたえた、あの古いお屋敷へ。
もう七時半を過ぎているというのに、街をくるむ空はいまだ黄昏の淡いむらさきいろをしていた。はじめてこの街に来た夜より少しふくらんだ、白い月がのぼっている。
「凪子さん。いくら夏休みだからって、中学生だけで夜ごはん食べにいくとか、ふつうなの?」
「さあ。知らないね。今日が特別な夜なのかもしれないし。ただ、あの子たちは同じ地区の子だから、大人たちともみんな顔見知りだし、水町通りの店だったらいいよって許してもらったのかもな」
「ママだったらぜったい駄目って言うよ」
いくら特別な夜でも。友だちと羽目をはずしたい日でも。……そんな状況、あたしには訪れなかったけど。
「ま、あんたのママだったら、そうだね」
清良、と凪子さんはあたしのあたまをぽんぽんと撫でた。
からころと、凪子さんの下駄が鳴った。きょうは作務衣じゃなくてジーンズとTシャツなのに、凪子さんは下駄をはいている。というか、いつも。
凪子さんは何も言わなかった。下駄の鳴る音と、水の流れる音と。夜の訪れを待つ街の、静けさの中で響いている。
ゆらゆら。ゆらゆら。
揺れているのは、水。
水面から差し込んでくる光がこまかい空気のあわを照らすのを、じっと見ていた。
ふいっと、朱いひれがあたしの真横を通り過ぎる。
待って。われにかえって泳ごうとするけど、水草がからまって、仲間の金魚に追いつくことができない。金魚の群れは、そんなあたしに気づかない。
待って。待って。
目が覚めた。
はっと身を起こすと、そこは水のなかじゃなくて、二階の「あたしの部屋」だった。
ぼーん、と柱時計が鳴る。いつからここにあるのだろう、ずいぶん古い時計だ。振り子のむこうに、七匹のこやぎが隠れていそう。なんてことを考えてみるけど、今しがた観ていた夢の、ざらりとした手触りは消えない。
あたしを置いて行った金魚たち。
笑いさざめく、女の子たち。
息が、くるしい。思い出しちゃだめ、思い出しちゃだめ。そう思えば思うほど、あたしの脳は勝手に過去のフイルムをまわしはじめる。
牛乳の滲みた雑巾のにおいが鼻の奥によみがえる。それは、あたしの机に、ほんとうに無造作に置かれていた。いつもと変わらない朝だった。登校して席につこうとして、ひどいにおいに、そのまま固まって動けなくなったあたしを見て笑っていたのは。
だめ。
息が。
ひっくり返ってしまう。ひっくり返って、ぷかりと浮いて、もう二度と泳げなくなってしまう。忘れなきゃ。なんのために、ママと別れてまで、このお屋敷に来たの?
思い出すな。
ひゅうひゅうと、のどが鳴った。だめ、ゆっくり、ゆっくり。吐いて、吐いて。
わかってる。きっと、あの子たちに会ってしまったからだ。楓くんを取り巻いていた、はなやかな女の子たち。似てた。似てたの、前の学校で、あたしを、
「きよら」
…………え?
だれ?
高くてまるっこい、女の子の声。驚いて、一瞬息が止まって、その拍子にあたしはいつもどおりの呼吸のしかたを取り戻した。
「きよら。だいじょうぶ?」
白地に朱い花の散った浴衣。ふっくらした、はだしの指。ぱつんと眉上でまっすぐにそろった黒髪。その姿が、夏の闇のなかで、うっすらとうかびあがって見える。
「更紗」
更紗は、にっこりわらった。
「か、掛け軸から……、その、ほんとに、」
「きよら」
更紗はそっと、あたしに小指を差し出した。浴衣の袖から伸びる、ふくふくとやわらかそうな、白い、こどもの手。ちいさなちいさな小指。
「友だち、だよ」
そう言って、更紗がちいさく首を横にかたむける。まっすぐな黒髪がさらりと揺れて白いほおをかくす。
「とも、……だち」
「ゆびきり」
請われて。あたしはそっと、金魚わらしのちいさな指に、自分の小指を、からめた。
つめたい。だけど、たとえば幽霊に撫でられたみたいな(視えたことすらないけど)、ぞっとするつめたさじゃない。この街を流れる湧き水に指先を浸してみたときの感じと似ている。
「やった」
更紗は笑った。笑って、やった、やった、と跳ねた。うさぎみたいに、跳ねた。
「また、あそぼうね」
そう言い残して、ふっと、消えてしまった。
消えてしまったのだ。
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