明日からの逃避

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 事の始まりは、午前〇時過ぎ。  一人暮らしのアパートの、いつもの夜。明日の講義の準備を整えて、眠りに落ちようという時のことだ。  世の中の大学生の一人暮らしがどういうものなのかは知らないが、少なくとも、僕の生活はどちらかというと貧乏にあたる。  住んでいるアパートの家賃もここらじゃ珍しいほどに安い。壁は薄いし、駅からは遠いし、コンビニも近くにないが、それが家賃の安さの理由になっている。  部屋の明かりを消し、明日の満員電車を思い憂鬱になりながら布団の中で目を閉じようという時。  ふと、死にたくなった。  目を開け、なんかよくわからないけど、死んじゃったほうがいいかなというような、物凄く軽い気持ちで僕は死ぬことを決めた。  布団から出て、財布だけ持って、寝間着のジャージのまま部屋を出る。  どう死のう。苦しくない方がいい。飛び込み自殺? 今から自転車をかっ飛ばしていけばなんとか終電に間に合うけれど、死ぬために疲れるのも嫌だなと思う。  まあ、ひとまずはコンビニまで行って、ゆっくり考えよう。どうせ、僕はもう夜明けを迎えることはないのだから。  コンビニに向かう途中、強盗でもしてみようかと考える。  脅して金を奪い、捕まる前までに豪遊するのだ。  でも、どうやって? ナイフでも買うか? どこで? そもそも、僕が捕まったら、親や友人に迷惑がかかるな。まあ、それは自殺したって同じことなんだけども。  電車に飛び込めば親にもろもろの負担を残すことになるし、仮に部屋で首つりなり練炭自殺なりをしたら、管理人さんに迷惑がかかる。管理人のおばあちゃんいい人だしなぁ。  じゃあ、どこか遠くの森にでも行って、そこで死ぬというのはどうか。  そこを管理してる人なんかには迷惑はかかるけど、身近な人間に負担をかけるよりはいいだろう。  いや、でも、それだと結局のこされた側に負担がかかったりするんじゃ?  あれこれ考えが巡る。そうこうしているうちに、コンビニに到着した。  結局、強盗をすることもなく、普通に飲み物とつまみを買い、僕はコンビニを出た。  少し立ち止まり、考える。  歩いてきた道を見る。夜の空気にあてられて、おかしなことを考えただけだ。さっさと帰って、明日に備えて眠ってしまえばいい。  けれど、足は動かない。  死ぬとか死なないとか、なんだかもうよくわからないのだけど、とにかく、部屋に帰りたくなかったし、眠りたいとも思わなかった。  僕は再び歩き出す。  アパートへ帰る道とは逆の、メインストリートに出る道の方へ。  なんだか、反逆のように感じられた。とても些細な行動でしかないのだけど、何か大きな力に逆らっているように感じられて、僕は笑っていた。これじゃあ完全に不審者だ。  けれど、楽しくて楽しくて仕方なかった。  メインストリートに出ると、僕は走り出した。  理由はよくわからない。まあ、楽しかったからだろう。  何も考えなくていいってことが、こんなに気が楽なんだっていうことを、僕は走りながら噛み締めていた。  どれくらい走っていただろう。限界が来て、息を荒げながら立ち止まって、時計を探す。勢いで出てきたせいで、時計はもちろん、スマホすら部屋に置きっぱなしだった。しかも、部屋の鍵も開けっぱなしだ。  財布だけちゃんと持ってきているあたり、本当に死のうとしていたのかあやしいものだなと思う。  あたりを見渡すと、ちょうど公園があった。  公園へ入り、時計を確認すると、もう深夜一時をまわっていた。  それなりに時間が経ったようにも思えるし、まだこの程度なのかとも思える。  ベンチに座り、体を休めながら、コンビニで買ったお茶を飲む。袋の中でぶん回されたからか、お茶は少し泡立っていた。  つまみを食べながら、この後どうしようかと考える。  夜明けを迎えることはないと思っていた。けれど、はっきりいって、もう死ぬ気は失せていた。  いや、たぶん、最初から死ぬ気なんてなかったんだろう。  僕はただ、「明日」から逃げ出したかったのだ。  夜の中にずっといれば、明日が来ないかもしれないと思ったのかもしれない。  けれど、時間は過ぎる。このままこうしていれば、必ず朝は来るのだ。  帰ろう。今から帰れば、少しは眠れる。  結局、僕は明日から逃げ出すことができなかった。  かしゃかしゃかしゃ。  ベンチから腰をあげようとしたとき、暗がりから、変な音が聞こえてきた。  かしゃかしゃかしゃ。  その音は、少しずつこちらに近づいてくる。  よく目を凝らすと、暗がりにシルエットが見える。  そのシルエットを、公園の街灯が照らし出した。  その音の正体は……。 「ルービックキューブ?」  あまりに突飛なその光景に、つい声が漏れてしまう。そのせいで、その音を発していた人物は僕の存在に気付いてしまった。  詳細を説明すると、ルービックキューブを回しながら女性が歩いていた。それも、深夜の公園でだ。意味がわからない。 「君」  女性が言う。僕に向けたものだろう。関わるのもめんどくさそうだ。無視しよう。 「君」  無視だ。 「ちなみに、私は君が反応するまで君に声をかけ続けるからよろしく」 「……なんですか?」  女性は満足そうに頷くと、隣に腰掛けた。僕は少し距離をとる。 「別に取って食ったりしないよ」  言いながら、女性はまたルービックキューブを回し始める。 「これ、初めてやったんだけど難しいね。全然そろわない。君、こういうの得意?」 「いや、全然」 「そうか。残念」  そう言い、またルービックキューブを回す作業に戻る。  なんなんだこの人。 「なんなんだこの人って思ってるだろう」 「エスパーなんですか?」 「顔見てればわかるよ」  口元に薄く笑みを浮かべながら言う女性に、僕は少しだけときめきを感じてしまう。いやいや。深夜にルービックキューブ回しながら歩いてる変人にそんな感情いだくなんてやばいだろう。 「学生?」 「はい」 「学校は?」 「はい?」 「明日は休み?」 「……いえ」 「サボり?」 「直球ですね」 「オブラートに包める質問でもないから」 「まあ、そんな感じです。というか、お姉さんこそこんな時間に何してんですか。残業ですか?」 「いいや」 「飲み会帰り?」 「いいや」 「じゃあ、なにしてんですか」 「なんとなく、帰りたくなかったんだよ。帰ったら一日が終わってしまうだろう? それが、なんだかとても嫌に感じられた。時々あるんだよ、そういうことが。明日がこなければいいのにってね。君も似たようなものだろ?」 「なんでわかるんですか?」 「夜に出歩く人間というのは多種多様だ。けど、私たちみたいなタイプは珍しい。で、君はそういうタイプ。逆にわかりやすい」  ルービックキューブを傍らに置き、女性は伸びをする。 「私は、そういう夜には、試練を設けるんだ」 「試練?」 「どんなことでもいい。何かをやり遂げたと思えると、明日が来るのも悪くないと思える」 「夜更かしをして、明日がきつくてもですか?」 「そう。少なくとも、何もせずに明日を迎えるという虚無は消える」 「今日は、その試練がルービックキューブなんですか?」 「そう。けれど、困ったことに、全然そろわなくてね。このままじゃ朝が来てしまう」  本気で困っているのだろう。うんうん唸りながら女性はルービックキューブを回す。 「あの」 「うん?」 「僕、手伝いましょうか? 試練だから手伝いはいらないっていうんならいいですけど」  女性はしばらく僕を見つめてから、パッと僕の手を取る。いきなりだったので、僕は少しのけぞってしまった。 「ありがたい。本当にありがたい。持つべきものは同士だね」 「同士って、大袈裟な」 「いやいや。いい夜だ」  女性は、本当に楽しそうに笑う。僕もつられて、笑ってしまった。  二人してあーだこーだどルービックキューブの色をそろえるべく考えていると、女性が僕に訊いてきた。 「君、よくないことを考えたりしてないかい?」 「よくないこと?」 「例えば、死にたいとか、そういうこと」  図星だった。ごまかそうとしても、うまく言葉が出てこない。 「生きていることが素晴らしいとは言わないよ。人それぞれ、現実への向き合い方というのは違うからね。私がどれだけ生のすばらしさを説いても、それは所詮私の経験からくるものでしかない。君に寄り添った助言なんてものは、私にはできない」  真っすぐな言葉だった。僕は、なんて返したらいいのか考えたけれど、思いつかなかった。 「人に寄り添えるだけの余裕が、私にあればいいのだけれど」 「……確かに、僕は死のうと思って部屋を出ました。急に、死にたくなったんです。でも、あれこれ考えてるうちに、死ぬ気がなくなってきて。たぶん、最初から死ぬ気なんてなかったんです。僕はただ、日常から逃げ出す理由が欲しかったんだと思います」 「その方がいい」 「え?」 「生きていることが素晴らしいとは言えないけれど、生きている方がいいとは思うから。矛盾してるかな? けど、同士の君には、生きていてほしい。君が生きているということは、私にとっても良いことだから」 「良いこと?」 「明日がこわくなって、こうして夜に逃げ込んだ時、一人じゃないと思える。どこかに君が、同士がいるんだと思えたら、きっと、それは素敵なことじゃないかって」  ルービックキューブを回しながら、女性はそう言った。  それから、無言の時間が続いた。  僕らは二人してあーだこーだどルービックキューブを回す。  そうして、ついに、すべての面の色がそろった。 「揃いました」 「そうだね。ありがとう。これで、夜を終えられそうだ」  女性は立ち上がり、僕を見下ろす形で微笑む。 「もう四時近くか、帰ってからも少しは眠れそうだ」 「会社行くんですか?」 「行くよ。君は?」 「え?」 「君は、学校へ行くのかい?」 「僕は……」  答えは決まっていた。 「行きます。同士が頑張ってるんなら、僕も頑張りたいから」 「そうか。じゃあ、帰ろうか。お互いの明日を迎えるために」 「はい。ありがとうございました」  僕ら二人は握手を交わす。  そして、公園を出て、それぞれの道へ歩き出した。  もう会うことはないのかもしれないけれど、女性の存在は、きっとこれからの僕の支えになるだろう。  あと数時間で夜が明ける。  迎えるつもりのなかった夜明け。  逃げたかった明日。  けれど、僕が迎えるのは、確実に「何か」が変わった朝だ。  それだけは、確信をもって言える気がした。
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