潮騒の花嫁

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潮騒の花嫁

 夏の海辺におよそふさわしくない花嫁姿、純白のウェディングドレスは砂まじりにはためいて、私たちの潮騒の婚礼はたけなわだった。ふたりの門出を祝うために、三つか四つくらいの女の子が、赤い風船を手にまっすぐこちらへ来た。 −この子はどこの子だろう。  私が女の子の黒目の強い瞳にとらわれていると、花嫁がしなだれかかってきた。見ると、血の気をまるっきり吸い取られたかのように蒼ざめている。女の子の手から、赤い風船が空中に放たれた。 「だめ、だめなの。こわい、こわい。」  赤い風船は青空の喉元へと飛び上がり、やがて溶けてゆくように消えた。  婚礼が済んだ後で、花嫁は軽い貧血と診断された。大事には至らなかったが、見舞いに来た花嫁の母が妙なことを言った。 「結婚式なんて挙げたのがいけなかったのかしら……。うちの家系は代々、私もこの子のおばあちゃんも結婚式には縁がなかったから、血が騒いだのかしら……。」  花嫁の父は、花嫁が十四の時に他界している。花嫁の母は二十歳の時に身ごもり、花嫁を二人の第一子としてこの世に産み落とした。もちろん花嫁の母にとっては初めて抱く我が子だったが、花嫁の父にとっては三人目の子だった。花嫁は父と母の私生児としてこの世に生を受けた。花嫁の母は花嫁になり損ねた。  そして花嫁の祖母もまた、花嫁になり損ねた人である。花嫁の祖母の姉の婚礼の日、妹である祖母は姉の白無垢にだまって袖を通して涙した。光沢のあるまじりもののない正絹の地に、羽根をおおきく広げた鶴が舞う相良刺繍だった。美しい姉が白無垢でゆっくりと歩いてくる姿を思って、あこがれがやまなかった。花嫁様となった姉の姿と鏡の中の自分を重ねて、涙がとめどなかった。 「まだ結婚を迎える前の娘が、花嫁衣装に袖を通すとお嫁に行けなくなるっていう話をね、私は母から何度も聞かされて……。」  結局、花嫁の祖母は祖父との間に婚姻を果たしたが、時折しも戦争の真っ只中にあって、花嫁となるどころではなかった。華やかな白無垢姿は遠いあこがれとして、花嫁の祖母の胸に深く秘められていた。花嫁の祖父はルソン島で戦死した。そして花嫁の母が産まれた。 「うちのおばあちゃんはとにかく迷信を信じる人でね、櫛をまたぐと嫁にいけないとか、雛人形の片付けが遅れると嫁に行き遅れるだとか。私は花嫁様になれなかったから、きっとどこかで間違えたのね。」と、花嫁の母はそう言ってすぐに打ち消すように、 「ごめんなさい、こんな話。今日はこの子の花嫁姿、ほんとにきれいだった。ごめんね。ありがとう。ごめんなさい。」  病室の外で、何度も頭を下げる花嫁の母は酔っていた。私も酔っていて、二人は支え合った。花嫁の母のぬくもりが腕に残った。 −妻は虫を怖がる性質だが、虫を殺すことはできない。朝方、ベランダの物干し竿を渡ってゆく蜘蛛を見て喜んだ。 「朝に見る蜘蛛ってね、縁起がいいんだよ。」  そんな迷信も、妻の家系に教えられたものだろうか。妻の肩を抱くと、母なる柔らかさがあった。  潮騒のむこうに、二重の虹を見た。
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