第7話 拝月教③

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第7話 拝月教③

「『黒の淵』と呼ばれる預言書が存在する。紀元730年頃に記された旧い書物だ。そこには神々の襲来とそれに仕える異形の種――奉仕種族の暗躍、神を崇める者達による召喚事例とその対処法が記されている。物理接触出来る者は限られており、今は神智研所長の裁慧士郎(さばきけいしろう) しか紐解く事を許されていない。故に、自分たちが預言書などという、怪しげな物に従って行動しているとは考えもしない構成員も多い」 「事実預言に従い、すでに神の一柱を砕く事に成功している。……11年前になるか」  観察するような眼差し。 「私も到底信じる事など出来なかったよ。この目で見るまでは」  やはりこの男も神智学研究所の関係者だったという事か。宮坂の話は続く。 「ハスターと呼称されるそれは、巨大な猛禽に似た姿をしていた。もっとも、形態を変化させられるそうだから、地球の大気に最適化した瞬間に毀され、そのままの姿を保っているだけなのだろうがな。初めて対面した時、私は屍骸でしかないそれに、身体の奥底から湧き上がる恐怖と畏敬の念を止められなかった。生物としての存在の深さと位階の違いを直感で理解した。科学者らしくない話だと笑うかね?」  無言で首を振る。アスキスの背後に浮かんだ異形の存在から、僕も同じ物を感じたからだ。 「『久遠に臥したるもの死することなく 怪異なる永劫の内には死すら終焉を迎えん』。あれらは人の力では『砕く』事は出来ても、『滅ぼす』事はまず不可能だ。屍骸であろうが欠片であろうが、そこに存在するだけで周囲に影響を及ぼしてしまう……」  右手で顔を隠すようにして、眼鏡のブリッジを押し上げる宮坂。そのまましばし黙考するかのように言葉を途切らせる。 「自分より優れた存在に出会った時、人間の反応は大きく二つに分かれる。一つは恐れ、忌避する。それが叶わない場合は対象を抹消しようとする。神智学研究所というのはそういった組織だ」 「……もう一つは?」 「神々は旧支配者などとも呼称される。『黒の淵』に記された中の何柱かは、かつて地球に君臨していたからだ。それだけの力を持ちながら、一柱たりともその支配を継続していない。何故だと思う?」  僕の問いには応えず、続けて問い掛ける科学者。僕には答える事が出来ない。 「簡単だ。支配する気など初めから無いのだよ。彼らが行おうとしているのは、侵略ではなく実験だよ。私は数多くのサンプルを目にしてきた。手足の骨が消失し、皮膚が鱗状に変質したもの。極低温下でしか生きられず、消化器官も地球以外の植生に対応する様組み替えられたもの。深海の高圧に耐え、魚類に酷似した外見を持つもの。炎の中で、焼き尽くされる事なく苦しみ続けるもの。その全てが元は人間だったなどと、君は信じられるか?」  語尾が微かに震えている。宮坂の隠し切れない興奮が伝わる。 「私は科学者として、人が次の段階に進む瞬間に立ち会えるのが何より誇らしい。ただ畏れ、知る機会を捨てるのは科学者として、いや、人として恥じるべき姿勢だ。君はそう思わないか?」  態度は冷静なのに、目には狂おしいほどの熱。僕は宙に浮いたままの問いの応えを、自分で見付ける事が出来た。  もう一つは同一化だ。その対象と同じになるか、その一部として存在する事が出来れば、畏怖と羨望が容易に他への優越感に転じる。 「もはやこの世界には三種類の人間しか存在しない。信徒か贄か、抗う者か。誰もが当事者だ。……そこで君の事だが」  なぜここで僕の話になる? 得体の知れない不安が圧し掛かる。 「君が巻き込まれたのも、神々を崇め顕現を試みる信徒達の引き起こした事件――神智研が召喚事例と呼ぶ物――と考えられた。神の召喚には犠牲が付き物だからな」  犠牲。神への供物。広い空間を何処までも浸す黒い泥。隠微で甘やかな腐臭。その全てが元は人間だった物の成れの果て。あの光景も、その神を呼び出すための生贄だったと言うのか。 「私が担当しているソーマも、君と同じ召喚事例の生き残りだ」 「ソーマも!?」  屈託の無い笑顔が浮かぶ。あの少女も、僕と同じ経験をし、生き延びている? 「ふむ、既に面識があるのかね。まあ良い。8年前の満月の夜、インドのジャンムー・カシミール州山間部の小さな村でその事件は起きた。一夜にして住民全てが狂死した中、母親の胎内にいた女児だけが奇跡的に生き残った。神智研に保護され、ソーマと名付けられたその娘が言葉を覚えたとき、初めて彼女が選ばれた巫女だと判明した。村人達は神を呼ぶ生贄ではなく、巫女を産む犠牲だったのだよ」  息苦しい。喉が渇く。何十人、何百人をも供物にして選ばれる存在。それじゃあ僕も……? 「ソーマが語る『緑の月の夜に落ちる雫』の話は『黒の淵』に記されたアキシュ=イロウに関する預言と一致する物だったらしい。アキシュ=イロウに関する研究を任された私は、知れば知るほどその存在に魅了されて行った」 「……そして転向したという訳ですか」  宮坂は応えない。だがその沈黙が答えだった。おそらく、拝月教をお膳立てしたのもこの男だ。 「だが君のケースでは、預言書に記された神を崇める宗教も、それに仕える奉仕種族の存在も確認されなかった。『黒の淵』にさえ記されていないイレギュラーな出来事なんだよ。君は一体何者なんだろうね?」  動悸が激しくなる。解る訳がない。そんなのは僕自身が知りたい事なのに。 「『黒の淵』には、襲来を預言された30の神とは別に、超越したシステムとも呼ぶべき存在について記されている。【混沌】、【門・道・鍵】、そして【使者・道化】」 「観察し続ける事がこれの使命」  表情を消し去った貌で、僕でない僕が応えるのを知覚する。 「そうか。やはりそうか。ニャルラトテップの端末。観察者が現れたという事は、此処で事態が進展するという事か。人類を素材にしたカンブリア紀の大爆発の再現を、この目で観察できる。その瞬間が来るのがとてもとても待ち遠しい。もうすぐだ。もうすぐだ」 (狂っている)  それと狂人とのやりとりを、これは期待とも不安つかぬ茫洋とした感覚のまま眺め続けた。
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