第1話 無名都市①

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第1話 無名都市①

 暖かい泥の中で目が覚めた。  甘ったるい腐臭を放つ、黒く粘つく泥の中に身を横たえているらしい。  広い空間の目の届く限り、浅い泥沼が続いている。 (目覚めたか)  うん。でもまだ眠いや。  薄闇の中、再びまどろみに落ちようとするも、微かな雑音が邪魔をする。  複数の人の声と足音。だんだん近付いてくる。 (観察し続ける事がこれの使命)  解ってる。  眠れやしない。寝返りを打つと、黒い泥が跳ねた。  靴底が固い床を叩く音が慌ただしく響く。  雨合羽のような物――恐らく、化学防護服――に身を包み、大仰なマスクを付けた人影が複数。大きな銃を構えている。物騒だな。始める前に終わらせるのはつまらないだろうと、ぼんやりと思う。 (●●●●●が次の瞬きをするまでの間の遊戯)  それも解ってる。 「…………生存……発見……」 「…………ありえない…………召喚……の……」 (唯一つの継続する意思であるこれの慰め)  それの声が遠くなり、意識が覚醒へ向かう。 「……奉仕種族……警戒を…………」 「…………ケース9、カテゴリーRに該当、指示を」  化学防護服の集団の中に一人だけ、素顔を晒した少女がいた。  身体のラインが露な白い皮製の服。同色の無骨なデザインのブーツが泥に塗れている。  要所要所に取り付けられた黒い金具が目に付く。服と一体になった右手袋は左肩に、左手袋は右脇腹に縫い付けられ、右上腕と左の二の腕部分がベルトで固定されている。――拘束具、か?  何の感情も表さない、ガラスのような瞳がこれ……僕を映す。  微かな揺らぎが浮かんだように見えたが―― 「了解。対象を保護。撤収後の焼却処理をもって状況終了」  返しの付いたさすまた状の器具で、乱暴に泥の中から引き起こされた。こういうのは保護とは言わないんじゃあ……? 化学防護服の連中は僕に触れる事無く、ストレッチャーに拘束し終えると、粛々と撤収を開始する。  どのみち抵抗する体力も無いようだ。車に運び込まれ後部貨物室のドアが閉まると、今度は真の闇が訪れた。やがて微かな振動が伝わる。移動を始めたらしい。  遠くから腹の底に響くような振動と轟音が伝わってきた。  真っ暗な車中で、ふと拘束着の少女の瞳に浮かんだ物の意味を理解した。  哀れみだ。僕に対する。  闇の中、少しだけ僕は気を悪くした。             §  無名都市。  それがこの街の名前らしい。  最初は名も無い地方都市というくらいの意味だと思っていたが、降り立った鉄道の駅名も「無名都(むめいと)」で驚いた。  10年前から開発が始まった新興都市で、周辺部はまだ開発が続いている。駅舎も駅前通りもまだくたびれた様子も無い。整然とした街並みを、身の回りの物を詰め込んだ小さな鞄一つだけを手にし、僕は歩き始める。  初夏の日差しを受けながら考える。移り住んだ人たちは、新しい住所が名無しの都だという事に、どの様な感想を持ったのだろうか。少し興味がある。  もっとも、名付けたほうの気持ちは少し解る気がする。  無有奏氏(むゆう そうし)。僕の名だ。  有っても無くても同じような物。投げやりに付け、半ば意地になって名乗り続けている。  三ヶ月前、僕は一夜にして住民の全てが消えた街で保護された、たった一人の生存者らしい。生暖かい黒い泥の中に横たわっていた記憶がある。全裸で。  その黒い泥が腐り果てた住人だという話だが、生きた人間を一晩で腐らせる薬物だか毒物が、本当に存在するのか、なぜ僕だけが無事だったのか。以前の僕なら知っていたのかもしれないが、今の僕には解らない。  僕には、泥の中で目覚める前の記憶が存在しないから。  地球温暖化だの避けられない食糧危機だの少子化だの時間単位で絶滅してゆく種だの無差別殺人だの。メディアは気の滅入るニュースばかり垂れ流しているが、そんな不安を反映してか、世間では新興宗教や自己啓発セミナー、サバイバル・コミュニティの類が流行っている。  僕が巻き込まれたのは、そんな団体の一つが起こした事件だったらしい。「黒い腐泥に成り果てる」というのはさすがにショッキングだと判断されたのか、表向きは毒物を散布しての大量殺戮後の集団自殺として報道されている。  僕にとってはとんでもない大事件だが、世界規模で見るとその様な事件が頻発し、一ヶ月で忘れ去られる程度の扱いだという。  そんな宗教にのめり込んでいたのか。もしくは、裸で歩き回るような性癖を持っていたのか。……どっちにしてもろくでもないな、昔の僕。  犠牲者が形を留めていないため、未だに正確な死亡者数が出ていないが、僕に関してはその逆。僕が何者であるかを示す記録が見付からないという事だ。つまり、僕は何者でもないという事らしい。  丸三ヶ月間。何処とも知れない隔離施設での検査を終え、すっかり厭世的な気持ちで解放される僕に「奏氏」の名を付けたのは、やたら元気で前向きな一人の看護婦。施設を出る最後まで「本当は『総司』がオススメなんだけどね!」と頑強に言い張っていたが、常々彼女の新撰組に対する邪な妄想を聞かされていた身としては、断じて受け入れる訳には行かない話だ。なんだその受けとか攻めとかってのは!? 「無有」の姓の方も、「名前なんか無い。必要無い」「いーや、あるね!」という、彼女との子供じみた言い争いの中で付けたようなものだ。あるいは全てを失い、何も持たずに自暴自棄、無気力の底に沈みかけていた僕を気遣っての演技だったのかもしれないが……いや、無いな。やっぱりそれは無い。  解放されたといっても、自由になった訳ではない。僕としても、身を寄せる親類縁者も無く放り出されても、即座に路頭に迷ってしまう。経過を見るための月に一度の検査と、常時所在確認と引き換えに、ここ無名都市にある星審学園の高等部一年生として、身分と住まいを保障された。  新たな住まいになる寮への道のりでも、今の世情を垣間見る事ができる。宗教や自己啓発セミナーの類のポスターが、あちこちに貼り出されている。数えただけでも三種類。やたら目に付くのは、緑の月を背景に、教祖らしい中年男が張り付いたような笑みを浮かべているポスター。まともな精神状態なら、どうこうしようとも思わないほどの如何わしさだ。翠月祭という、満月に合わせた彼らの儀式の開催を告知する物らしい。拝月教……流行ってるのか?   立ち止まりポスターを眺めていたら、不意に足首に衝撃を感じ、次の瞬間には視界が反転する。背中の痛みで、足を掛けられ、受身を取る間もなく綺麗に転がされたのだと気付く前に、胸元を踏みつけられ身動きを封じられた。 「お前はアレか……うん? 違ったか。でもどこかヘンだな」  僕の胸元にピカピカの黒の小さなエナメル靴を乗せ、なにやら一人思案しているのは、黒いゴシックドレスに身を包んだ少女。ご丁寧に同色のヘッドドレスを載せている。この角度だと、白くて細い足の付け根まで―― 「まあ、いいや」  何かを納得したらしい少女は、素早く足を翻し僕の鳩尾に一撃を叩き込む。 「こういうのに引っ掛かるなよ。心の平穏が欲しいなら、墓参りにでも行くか、坊主の説教でも聴いてろ。その方がいくらか安全だ」  のた打ち回る僕を尻目に説教臭く警句を吐く。 「……い、いきなりすっ転ばしたうえにケリをくれといて、安全とか言うな!」  改めて見ると、碧の瞳に金髪で、ビスクドールの様に愛らしい。もっとも、自分の人形に、こんなに小憎らしい表情を浮かべさせようとする人形師はいないだろうが。 「レディのスカートの中覗き込んで、警察に突き出されないだけマシだと思えよ」 「のぞ……っっ!?」  初めてだ。怒りで言葉が出てこないという経験をしてしまった。 「それじゃあコーラ買って来い。あとあんぱんな」  顎で商店街の先を指す。  「何でだっ!?」 「パンツ何色だった?」 「白でした!」  尻に追撃を受ける。格闘の心得でもあるのか、僕よりずっと小柄で体重も軽いはずなのに、すごく痛い! まあ、僕もパンツはただの布だと言い切れるほど、枯れてもいないし悟ってもいない。小悪魔を通り越して悪魔のような少女の言動だが、眼福だった事を認めるにやぶさかではない。 「こっちの公園で休んでるから、早くしろよ。逃げたら見付け出して……」  言いさして歩み去る。  見付け出してどうするの!? っていうか、お金貰ってない!!  諦めてパン屋を探すべく歩き出し、ふと、少女の言葉に覚えた違和感を思い出す。拝月教に対して、何で「マシだ」とかじゃなく「安全だ」っていう言葉を使ったんだろう。そもそも、僕を何と間違えたんだ?
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