1

1/1
0人が本棚に入れています
本棚に追加
/7ページ

1

 床に段ボール箱が置かれている。ガムテープでしっかりと密閉されてはいるが、中には紙の資料がびっしりと詰められているらしい。紙というのが思ったよりも重いというのは引越しの時に経験済みだ。軽くストレッチしてから手を伸ばす。  前腕筋を意識して向こうの角をしっかりと掴む。次は上腕二頭筋、ゆっくりと胸元に引き寄せる。広背筋で上体を起こす。呼吸にも注意を払う。そして最後に大腿四頭筋に働きかけてガニ股の脚をまっすぐに伸ばし、がっちりとその重量を受け止めた。ニ十キロくらいかなと、ミオはその負荷に少し物足りなさを感じていた。  資料を運んでおくようにと教授から指示されたのはつい先ほどのゼミが終わってからだった。大学四年生となり研究室に配属されてまだ二か月ちょっと、実感が湧かないというのが正直なところだ。しかし還暦を間近に控えたベテラン教授に言わせれば、若い頃の楽しい夏など飛ぶように過ぎ去ってしまうそうだ。秋になればいよいよ本格的に卒業研究をまとめ始めなければならない、だから暇を見つけて先輩たちの卒論を読んで何となくイメージを固めなさい、そういうことで賜ったのが資料室の段ボール二箱だった。  ミオの所属する研究室には同学年が六人いる。男が四人と女が二人。常識的に考えて男の内の誰か二人がやるのが筋だが、バイトやらデートやらで女のミオがその一翼を担うことになってしまった。そしてもう一翼が、あろうことか一番ひ弱なユウタである。160に届かない背丈、線の細い体つき、本当に声変りをしたのかと疑いたくなるような高い声。お酒は飲めるが購入の際には絶対身分証明書の提示が必要となるこの男の子は、可哀相にプルプル震えながら段ボール箱を持ち上げた。  資料室から研究室までの百メートルを二人で歩く。 「何でこういうのってデータ化しておかないのかしら。こういうとき困っちゃうよね」 「きっとデータはデータであると思うよ。発表のときに印刷したのを捨ててなかっただけじゃないかな。それに紙のほうが記録媒体としての歴史があるし」  やっとのことでそう言うとユウタは段ボール箱を床に下ろした。  研究室まであと半分くらい、上手くいけばもうひと息で届くだろう。研究柄パソコンの前に座ることが多いユウタにはいい運動になるかもしれないと思う反面、少し酷だとも思われた。座っているときの腰の負担は立っているときより40パーセントほど大きい、ならば普段から気づかぬうちに相当な負荷をかけているに違いなかった。しきりに腰をさするユウタを見て、ミオはよしっと覚悟を決めた。  ミオは自分の箱をユウタの箱の上に重ねた。そしてそのまま箱を抱くようにして腕をまわす。 「ミオちゃん、危ないよ!」  身を案じる声がなおさら庇護欲を掻き立てた。試しに少し床から浮かせただけで、腕に、腰に、脚に、かなりの重量がのしかかる。それでも今こそが日々の成果を見せる時だと全筋肉に命令し、ゆっくりと腰を上げていく。なんとか無事に二つの箱を抱え上げた。ユウタに向かって笑顔を見せると、不安そうに見上げる顔が安堵した。  残りの道を再び二人で歩きだす。手ぶらのユウタは大丈夫かと心配したり、自分が情けないと感じたり、運動しなきゃと決意したり、何か奢るよと提案したりと、コロコロ様子を変えている。しゃべり続けることでせめてミオの疲労を和らげようとしてくれているのだろう。そんな健気なところにミオは惹きつけているのかもしれなかった。 「ミオちゃんは僕の憧れだよ」  ユウタは素直な性格で思ったことをそのまま言ってしまう節がある。しかもその何気ない一言がどれほど周りに影響を与えるかを気にしないから質が悪い。だからミオの顔が赤くなったのも単に力仕事をしているからとしか思わないだろう。それはミオにとってちょっぴり残念だったが、内に秘めた想いがバレずに済むのは助かった。  それでも自然と頬が弛んでしまうのでミオは強く唇を噛んだ。
/7ページ

最初のコメントを投稿しよう!