4

1/1
前へ
/7ページ
次へ

4

 二週間程たった頃。  梅雨に入り雨がしとしと降っている。ゼミが終わり、ミオはマリナに誘われて構内の学食でお昼をとった。食事しながら話をするが今日のマリナは口数が少ない。普段もそれほど喋るというわけではないが、二人はいつの間にか若干の変化までも把握できる間柄になっていた。こういうときは少し機嫌を損ねている。  マリナが海水浴の話題を振った。この世話焼きは例によってミオがちゃんと準備をしているのかと心配しているようだった。女性陣が参加すると聞いたとき、就活疲れの男子たちは大いに沸いたが、マリナはある意味男子よりミオの水着姿に期待を寄せているかもしれない。ひょっとしたらそれが原因でむっつりしているのかと考えて、ミオはここ最近の努力のほどを懇切丁寧に説明した。  まずはツイストクランチとサイドクランチ。腹直筋と腹斜筋を意識的に鍛えることで美しいくびれを作り出す。お腹は現段階でも少し腹筋が浮かんでいるが、最高の状態で夏本番を迎えられるようトレーニングメニューに組み込んだ。それから美尻スクワットとヒップリフトも。美しい上向きのお尻ならばさしものユウタも魅了できるとの考えだ。他にもバストアップや有酸素運動、食事制限。一日ごとにどんなローテーションで行っているのかノートを広げて説明をする。しかし全てを語り終えないうちにマリナは「おバカですか?」と一蹴した。 「あれだけスキンケアをするべきだって言いましたのに。どうするのです? そのニキビ」  マリナは手提げ鞄からコンパクトを取り出してミオに向けた。鏡に映るその顔には以前に増して赤い斑点が浮かんでいる。 「一つ二つ増えたり消えたりしたところでさほど変わらないよ。大丈夫、動き回っていれば分からないから」 「水に強いと謳うコンシーラーなども確かにあります。でも無事に恋を成就させた後はどうするのです? デートスポット、バスルーム、ベッドの中、顔を近づける機会はいくらでもあります。誤魔化しきることはできませんよ」 「そんな気の早いこと……」  マリナはテーブルに身を乗り出した。 「せっかくアドバイスをもらったと言うのに筋肉にかまけてお肌をおろそかにしたとあれば、あなたはきっと後悔することになりますよ」 「でもその逆だってあり得るでしょう? ニキビが消えたからって必ずしも成就するってわけじゃないよ。でも筋肉なら大丈夫、鍛えた分の成果は必ずあるから。『筋肉は嘘をつかない』のよ」 「『嘘つかないでくれ』の間違いではありません? あなたはただ筋肉にすがっているだけ、碌に考えることもなく問題解決を筋肉に押し付けているだけなのです。そんなの愛ではありません」 「……マリナに何が分かるの? そんな柔らかそうな体のくせに」 「どの筋肉も皮膚というお洋服を着ています。厳しいトレーニングを強要し、挙句にブツブツの汚い衣服を着せるなんて、まるで奴隷扱いじゃないですか!」  その発言は筋肉にかけたミオの半生を否定するも同然だった。  まだ鏡にはミオの顔が映っていた。歯を食いしばり強い目つきで真正面を見据えている。マリナの顔がみるみる怯えの色に染まっていく。二人は罰が悪くなって視線を逸らした。  高ぶる感情のやり場を求めて、ミオは頬杖ついて窓の外へと目をやった。雨はまだ降っている。雨脚はさほど強いわけではないというのに地面を叩く音がはっきりと聞こえる。  ぽつりぽつりと、かき消えそうな声が聞こえた。 「でしゃばったことを言って、ごめんなさい。貴女は一人ぽっちの私を救ってくれた人だから、大学で初めてできた友達だから、やっと恩返しができると思って」  マリナは肩を震わせ、目には涙を湛えていた。  窓ガラスにうっすらと浮かぶマリナを見ながら、ミオはかつてのマリナの姿を思い浮かべた。講義室にて一人座る姿は望んで周りと距離を置いているようにしか見えなかった。今思い返せばあの時もそのおすまし顔の下にはあらゆる喜怒哀楽が眠っていたのかもしれない。それがここまで感情を露わにするのは、きっとお肌をおろそかにしたことよりもミオから一言も相談が無かったことが残念だったからだろう。  無視したこともお節介も、どちらも悪い。ならどうすればいいか、筋肉に伺うこともない。 「私、友達同士で恩返しなんかしたことない。相手が困ってたら『仕方がないなぁ』って手伝うのが当たり前だし、貸し借りなんてだべったり奢ったりしている内にいつもなあなあになってるの。いちいち恩返しする関係なんて、ちょっと冷めた感じがする」  ミオが言うと、マリナの頬を雫が伝った。  そして、ミオは勢いよくテーブルに額をつけた。 「もう一度、スキンケアのこと教えてくださいっ。今度ランチ奢るから」  突然のことに、マリナはポカンと口を開けた。しかしすぐに笑顔が戻った。 「仕方がないなぁ」  マリナが言うと、ミオも笑った。
/7ページ

最初のコメントを投稿しよう!

0人が本棚に入れています
本棚に追加