1 婚約を前提に働きます

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 初見での感想は、「なんだか浮世離れしている」だ。  周囲を四、五階建てのビルに囲まれているというのに、そのカフェだけぽっかりと穴が空いたかのようにささやかな二階建て。  雰囲気は古民家を改装したものに近い。木と漆喰でできた壁に、窓が二つ並んでいて、その内側にはカーテンがまとめられているのが見えた。  ここまでは普通のカフェだ。しかし、このカフェには一つだけ妙なものが設置されていた。  カフェの前にあったのは、小さな鳥居だった。ちょうど猫のような動物でなければ入れそうにない鳥居だ。不思議に思ってそれを覗き込んでみると、鳥居の奥にはペットが出入りするような小さなドアが備え付けられていた。  黒猫は迷わずその鳥居の中に消えていく。私はちょっとの間立ち尽くした後、きょろきょろと辺りを見回した。人影はない。  もうこのカフェに入ってしまおう。どうせカフェなら軽食もあるだろうし、店員さんが帰り道も教えてくれるかもしれないし、あの黒猫がここの飼い猫だったら、存分にモフらせてくれるかもしれないし。  最後の煩悩が若干強いとは感じながら、私は鳥居の隣にある「寄り道屋」と掛けられた人間用のドアを引き開けた。 「……いらっしゃいませ」  低い声で出迎えたのは、私よりちょっと上の、具体的に言えば27歳ぐらいの不愛想な男性だった。どうやらここの店主のようで、彼以外に店員らしき影はない。腕まくりをした白いYシャツに濃い緑のエプロン、そしておんぶ紐を肩にかけて――え、おんぶ紐? 「あぶー」  おんぶ紐に支えられ、店主の胸に抱かれた赤ん坊が私を見る。やけに鮮やかな赤色の目が、じっと私の顔をうかがっている。まっすぐに見てくるその目を見ていられなくなって、私はあわてて店主に視線を戻した。無愛想にコップを磨いている。  子育てをしながらカフェで働いているなんてすごいなあ。そこまで私と年が離れているわけでもないのに、一人で生きていくことすら怪しい私なんかとは大違いだ。 「お姉さん、こっちこっち」  軽い口調で声をかけられてそちらを見ると、カウンターの奥の席に青年が一人腰かけていた。 「こっちのカウンター席においでよ。俺、喋り相手がほしくてさ」  にこっと黒髪の青年は笑う。しなやかな体つきの二十歳ぐらいの若い男だが、表情がなんだか幼くて十代後半ぐらいにも見える。  うーん、ちょっと馴れ馴れしい気もするけど、断る理由もないしいっか。  特に深く考えず、私はカウンター席へと腰かける。店主がそっと寄ってきて、無言で水を出してきた。  カフェの店長としては、やっぱりちょっと不愛想すぎる。他人事だけど大丈夫なのかな。  ちらりと彼の顔をうかがおうとしたが、彼はこちらと視線を合わせようともしない。そもそも表情がほとんど変わらないので、ただちょっと顔が怖い系の子連れイケメンだということしかわからない。  興味を抑えきれずにそちらを見ていると、ちょうど後ろから青年が声をかけてきた。 「ねえ俺、黒波(くろなみ)! お姉さんは?」 「えっ、はい! 道成寺さくらです」 「さくらちゃんか。いい名前だね」  黒波さんはにっと目を細める。金色の目がわずかに光った。ちりっと頭の端で直感が働く。すごく重大なことを言ってしまった気がする。でも、よくないことではないような、そんな感覚。 「こっちはここのマスターの和狸草太朗。俺は狸くんって呼んでる」 「わたぬきさん」 「そう。平和の和に動物の狸で和狸」  和狸さん。なんだか変な名前だ。  改めて店主を見るも、狸というには少し見た目が怖すぎる。まだ狼だといわれたほうが納得できるというものだ。じっと見ていると和狸さんはちょっとだけ私に視線をやった後、居心地が悪そうに私に背を向けた。  しまった。不躾にじろじろ見すぎた。反省しながら黒波さんに向き直る。 「ね、さくらちゃん、どうして『迷子』になっちゃったの?」 「えっ?」  まだ何も言っていないのに突然そんな話題を振られ、きょとんと黒波さんを見る。黒波さんは口の端を持ち上げながら答えた。ドヤ顔だ。 「わかるよ。ここに来るモノはみんな何かに『迷って』るんだ」 「迷って……?」 「君は道にも迷っていただろうし、人生にも迷ってる。違う?」  まるで占い師のような言い方だ。金色の目がじーっと見てくる。自分の内側をざらりとなでられたかのように背筋に寒気が走った。 「俺たちでよければ話聞くよ。これもこの店で結ばれた何かの『ご縁』だって」  にこにこ笑いながら黒波さんは促す。正直言って胡散臭い。  でもなぜか「話すべきじゃあない」とは思わない。そして聞かれたなら答えないといけないな、とも思う。私は口を開き、これが人に流されていることだと、なんとなく気づきながらも話し始めてしまっていた。 「私、派遣社員だったんですけど」 「だった?」 「リストラされたんです。この不況のせいで」  言葉にすると一気に実感がわいてきて、大きくため息をついてしまう。黒波さんはちょっと考えてからうなずいた。 「リストラ……ああ、暇を出されたってことね」  古風な言い方だな……。今時そんな言い方、小説だってしないと思うのだけど。 「そっか、働き口なくしちゃったんだ。これからどうするの?」  不躾に尋ねてくる黒波さんに口をぎゅっと閉じる。カウンターの向こうからコーヒーカップを手にした腕が伸びてきた。 「どうぞ。ブレンドコーヒーです」 「ありがとー」  小さくことりと音を立てて、カップが黒波の目の前に置かれる。黒波さんはそれを両手で持ち上げると、ふーっふーっと何度も息を吹きかけてから唇を近づけた。 「あちっ」  舌を出しながらコップから口を離す。相当の猫舌のようだ。  興味が私からそれたのを感じ、私はカウンターの上で組んだ指を見下ろした。じんわりと情けなさがこみあげてきて、ぎゅっと指先に力を籠める。 「私、特に得意なものもないですし、なりたいものもなくて、だからこれからどうすればいいかわからなくて……」  誰も聞いていないような気分でぽつぽつと言う。事実、黒波さんも和狸さんも私の声を遮ろうとしなかった。だけど、そんな二人の代わりに明るい声が和狸さんの胸元から上がった。 「うー、あう!」  和狸さんの胸で、赤ん坊が元気に腕を振り回していた。何かを主張しているようだ。意味は分かるわけもないけれど。 「ん、どしたの縁姫様(えんきさま)」  黒波さんが身を乗り出して彼女をのぞき込んでいる。彼女は私に手を伸ばしている。  えんきさま? 様付けなんてまるで彼女がお姫様とか、神様とか、とにかく偉い存在みたいで―― 「あぅ、ぅ、うぇええええん!」 「うわぁあ!」  ぐらっとした突然の振動に私はあわててカウンターにしがみついた。びりびりと響く泣き声のせいだと最初は思っていたが、錯覚なんかではないことにはすぐに気づいた。  狭い店内が、みしみし音を立てて揺れていた。壁にかかった時計もぐらぐら揺れている。共振とかそういうレベルではない。 「えっ、えっ!?」  戸棚のガラスが開き、食器が飛び出す。銀食器が宙に浮かび、びゅんびゅん飛び回る。ポルターガイスト!? 超能力!? 神通力!? 「うひゃあ縁姫様、やめてぇーっ!」  黒波さんは悲鳴を上げて床にうずくまっていた。何が何だかわからないまま、私もカウンターから手が離れそうになる。 「ぇあ!!」  威勢のいい声の後、和狸さんのおんぶ紐から赤ん坊がすぽーんっと飛び出した。和狸さんはそれまでの落ち着いた雰囲気を崩し、慌てて私に叫んだ。 「受け止めてください!」 「え!?」  とっさに腕を開き、すっ飛んできた赤ん坊を受け止める。そのまま背の高い椅子から落ちそうになったが――その寸前に私の体は柔らかな感触に受け止められる。  思わず閉じていた目を開く。そっと足元を見ると、私の体はふわふわと浮いていた。ええ!? もしかして私、超能力に目覚めちゃった!? 「み!」 「ひゃっ!」  赤ん坊が声を上げると同時に、私の体は重力に従った。自然と私はしりもちをつく形で床に落下する。 「いっつぅ……」 「み、きゃぅ!」  赤ん坊は私の腕の中でけらけらと笑っている。何だったんだ……。  失意がすぎた故の幻覚だったのかとふと思ったが、ばくばくと暴れる心臓を押さえながら周囲を見ると、やっぱり食器や家具が床に散らばっている。 「どうしたの、縁姫様……何か機嫌悪くなることでもあった?」  ふらふらしながら黒波さんがやってくる。カウンターの向こうから和狸さんも出てきた。 「……縁姫様をこちらに」  ちょっと離れたところから腕を伸ばしてくる和狸さんに従って、えんきさまという赤ん坊を渡そうとする。しかし、彼女は私の腕にしがみついて動かなくなった。 「あう、あう」  和狸さんが彼女の体を持って引っ張ろうとしても、彼女は私の服をつかんだままだ。それどころか笑顔でこちらの服を引きちぎりそうな勢いだ。助けてほしい。 「に! うー、あ!」 「えっ」  彼女の言っていることが分かったかのように黒波さんは声を上げる。和狸さんも目を見開いている。びっくりしているみたいだ。 「う!」 「そっかあ。なるほど、いいんじゃない? 名案だと思うよ」 「にー!」 「いや、しかし」  私抜きで話が進んでいる気がする……。「赤ん坊の言葉の意味が分かるはずない」と冷静な部分の私が言い、だけどさっきの超能力騒ぎのことを見てしまった自分は「いや、あり得るよ」と主張している。  三人はもごもごと話し合った後、私に向き直った。自然と私たちは床で膝を突き合わせている形になる。 「な、なんでしょう……」  和狸さんはちらりと黒波さんをうかがう。彼はひょいっと首をすくめた。 「君の口から言いなよ。狸くん」  黒波さんはいたずらっぽい表情でそう言う。ついでに「君の問題なんだからさ。縁姫様の言うことは絶対でしょ?」とか飄々と促している。和狸さんは視線をうろうろとさまよわせた。 「その……」  明後日の方向を向き、目を伏せて、ちらりと私をうかがい、顔をちょっとしかめた後――和狸さんは絞り出すように言った。 「『婚約を前提にここで働いてみませんか』と、縁姫様が……」  予想外から飛んできた言葉に、私は一瞬フリーズした。 「……婚約? 前提?」  つい今しがた問題発言をした和狸さんは、視線を床に向けたまま動かなくなっている。私も衝撃が強すぎて反応できずにいる。  そんな私たちに割り込むように、黒波さんはさらさらっと伝票に何かを書いたものを私の前に伏せて置いた。 「狸くんと婚約して働いたら、お給金はこれぐらい出せるってさ」  すっと差し出されたそれを拾い上げ、その金額に目をひんむいて驚く。  婚約。働く。お金。失職。働く場所。就職。お金――!! 「働きます! 婚約します!!」  身を乗り出して和狸さんに宣言する。  しゅるっと紐のようなものが、視界の端を通った気がした。
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