1 婚約を前提に働きます

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1 婚約を前提に働きます

 思えば、嫌な予感はしていたのだ。  朝に五分だけ寝坊したり、急いで履いたパンプスの踵を踏んでしまったり、昨夜降った雨の残り雫がつむじに落ちてきたり。  一つ一つはなんてことはない出来事だけれど、私の経験上こういう些細な不幸は、最終的にとんでもない災厄を連れてくる。 「道成寺さくらさん。あのね、急なことですごく言いづらいんだけどね」  いつもはぼんやりした雰囲気をまとった上司がそう切り出したとき、私の嫌な予感は最高潮に達した。 「上の指示で、派遣さんたちに辞めてもらうことになったんだ」 「……え?」 「ほら、最近うち業績悪いし……分かってくれないかな」  お願いという形を取ってはいたが、ほとんどそれは強制のようなもので。混乱した思考の中、こういうことを言って回らなければならない上司をいっそ可哀想に思う。完全に現実逃避だ。 「ごめんね、でももう決まったことだからね」  わたわたとジェスチャーをしながら上司は主張する。  私は思考がまとまらないまま、それに了承するしかなかった。 *  解雇通知も急なら、引継ぎ作業も急だった。  周囲に急かされながら、たったの二日で担当していた仕事を正社員に引継ぎ終わり、三年間お世話になった職場に、私は別れを告げた。  道成寺さくら、二十五歳、春。無職の仲間入りの瞬間である。  当然送別会なんてあるわけもなく、午前の仕事が終わった直後に追い出された私は、ビジネス街をとぼとぼと歩いていた。  空は私の内心を表したようにどんよりと曇り、渦巻いた雲から雨が降ってきそうだ。  通りにはちょうど昼休憩を取るためにビジネスマンたちが行き交っている。  周囲の人間が妬ましい。ほんの数日前まで(休憩時間はいつもずれ込んではいたものの)その一員だった私は、惨めで情けなくて逃げだしたくて、気づくと私は大通りからそれて、ちょっと年季が入った雑居ビルが乱立する裏通りにやってきていた。  腹の虫がくうっと鳴く。  昼時だ。お腹が空いた。これから金銭面で厳しくなっていくことは間違いないけれど、ちょっとぐらい外食してもいいんじゃないか。  そうでもしなければ、意地と根性で押し殺していた情けなさで涙が出そうだ。 「……はぁ」  大きくため息を一つ。胸にたまった感情を全部吐き出すように息を吐くと、かろうじて体を支えていた足が崩れ落ちそうになる。  私が何をしたって言うんだろう。いや、何もしなかったのがいけなかったのかもしれない。生まれてから今まで、周りに流されて、なんとなくで生きてきたツケがここにきたもかもしれない。  親に言われたから勉強して、周囲にすすめられたから部活をして、親に言われた学校に進学して、周囲と一緒になって怠惰な大学生活を送り、気づけばどこにでもいるただの派遣事務員の完成だ。  自分で決めるべきだったんだと思う。大人としての自立ってやつをすべきだったんだと思う。  だからこそ理不尽のような、自業自得のような。  再び大きくため息をつく。  その時、足元をしゅるっと何かが通った気がした。私は『それ』に視線を引かれて、ふっと顔を上げる。 「にゃあん」  ぱちりと目があったのは、一匹の黒猫だった。鈴のある首輪をしているということは、放し飼いにされているか、迷子猫なのだろう。  アスファルトに腰かけていた黒猫は、小さく「にぃう」と鳴いた後にゆっくりと歩き始めた。  何故だか、ハードボイルドな後ろ姿だ。比較的細身の猫だというのに、必要であればヌートリアだって狩ってみせるというような貫禄がある。  ついてこい、とでも言っているのだろうか。よく当たる私の勘が、なんだかそれを追いかけたほうがいいとピリピリ主張している。  空腹と気疲れでぐらつく視界のまま、私はふらふらと足を踏み出した。  はきなれたはずのパンプスの重みに耐えながら、猫に先導されて裏通りを歩いていく。不思議と周囲に人の気配はない。  猫集会にでも連れていってくれるのか。猫は結構好きだし、それはそれでありかもしれない。  そう思うとちょっとだけ軽やかな気分になり、たまに立ち止まっては私が追いつくのを待っている黒猫を追いかけていく。そんな気遣いができるとは、なんて人ができた猫だろうか。職場――いや、前職場の同僚たちにも見習ってほしいぐらいだ。  堂々と歩く黒猫について歩いていくと何度も複雑に道を曲がってしまい、私の方向感覚はすっかり狂ってしまった。  これでは自力で帰れる気がしない。ほとんど迷子だ。スマホという文明の利器がなければ詰んでいただろう。  一応現在地を確認しようとスマホを出してみた。タップしても、電源ボタンを押しても、うんともすんともいわない。  あ、これ完全に迷子だ。あまりの事態に立ち尽くしていると、先に行っていた黒猫が、てててっと寄ってきた。 「なぅなぅ」  猫語で何か話しかけてくれている。ぐっと潤みそうになる涙を堪え、私は黒猫に腰を折った。 「ありがとう、今の味方は君だけだよ……」  弱々しく言うと、黒猫は「うにゃうにゃ」と言いながら私から離れていった。ちょっと立ち止まってこちらを振り返っているのを見るに、どうやらまだ案内を続けてくれるらしい。  ……どうせ迷子なのだ。この子についていって、大通りに出られることに賭けてみよう。  そんなことを考えながら歩みを進める。空の雲はいつの間にか晴れていた。  やがて猫とともに私がたどり着いたのは一軒の小さなカフェだった。
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