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あれは、母子家庭だったうちに、ある日突然お母さんが連れてきた。
「新しいお父さんです。今日からこの人を、お父さんと呼びなさい」
お母さんは無表情でそう言って、ドアの外から、巨大な紫色の塊をごろごろと転がしてきて居間に置いた。駿矢の顔は思い切り引きつり、ぶよぶよとした厚い表皮と細かい毛に覆われた俵のようなそれを、絶句しながら見下ろしていた。
私は、何とか言葉を選びながら訊いてみた。
「お母さん。この人をって言うけど、この――こちらは、人じゃなくない? それに、お母さんちょっと話し方が変だけど」
その時もう、お母さんはお母さんではなくなっていた。白目まで紫色の両目で私をにらみ、
「差別はいけない。あなたは、差別をしてはいけない。これがお父さんです。あなたたちのお父さんです」
と繰り返した。
その日の夜から、お母さんはどこかへ消えてしまった。
私と駿矢は結局、何物なのかも分からないその生き物を、あれとしか呼べずにいる。
便宜的にでも「父」と呼ぶと、駿矢は怒った。
それは、とてもまともだと思う。
■
夜、ふと目を覚ますと、隣の布団に駿矢がいなかった。
そろそろさすがに姉弟で部屋を分けたい、とは普段から言っていたけれど、だからといって布団を出て他で寝るほど繊細な弟ではない。
時計を見ると、まだ真夜中だ。トイレにでも行ったのかと思い、寝直そうとした時、居間の方からうめき声が聞こえてきた。
「やめろ……くそ……」
物音を立てないようにふすまを薄く開け、居間を覗く。
すると、例の糸に絡めとられて身動きできなくなった駿矢が床に組み伏せられ、その上にあれがのしかかっていた。
あれの口(たぶん)の辺りから、虫の口吻のような管が伸びていた。その先端は、駿矢の首筋に突き立てられている。
「やめろ……痛ッ……やめろこの野郎……畜生……」
半透明の管が小さくぜん動し、その中を赤いものが通っているのが見える。
これが「父」の食事で、定期的に駿矢の血を吸っている。なぜか私には手を出さないけど、駿矢は朝も夕も関係なく、「父」がその気になった時にいつも無理やり餌にされていた。
これは駿矢にとってはこの上ない屈辱らしく、特に私に見られるのを嫌がる。私はふすまを閉めて、布団に戻った。
あの糸は、三十分ほどでぐずぐずにもろくなり、ほどくことができる。やがて、よろよろと駿矢が戻ってきた。私の隣で布団をかぶる気配がする。
「……姉さん」
「……うん」
私が起きて、見ていたのに気づいていたか、と胸の中で謝った。
「俺はあいつを殺したい」
「……うん」
「姉さんは好きだ。守ってやりたいと思う」
「気持ちは有り難いけど、好きとかは困る」
「そういうんじゃねえよ」
駿矢が苦笑した。
それから二人とも黙って目を閉じ、やがて、偽物の寝息を揃って立て始めた。
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