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プロローグ
――私は必死に逃げていた。
振り向くと、すぐそこには爛々と目を輝かせる恐竜の頭があり、大きく開いた口内に鋭い牙がびっしりと並んでいるのが見えた。今にもがぶりと噛み付かれそうで、冷や汗が流れる。
巨体にみあわぬ速さで迫りくる灰色の恐竜に、私は追いかけられていた。
もちろん、現実ではない。
VR(仮想現実)と呼ばれるゲームの中での話だ。
「あっ、しまった……っ!」
特徴的なふたこぶ岩の横を走りぬけ、私ははっと気が付いた。焦るあまり、曲がるべき場所を通りすぎてしまっている。大失敗だ!
だけど、引き返すのは無理だった。すぐ後ろに迫る恐竜の足音に追いたてられて、私は足を止めずに走り続ける。
そもそも、今日は最初からミスばかりだ。
今回の目的はクワトルという名の大型昆虫の討伐だったのに、そのついでに採取をしようと山頂に登ってしまった。
今日が火の日で、この恐竜、タラントスの出没する日だということをすっかり忘れて。……珍しく早起きして軽くゲームでも、と考えたのが不味かったかなぁ。
「クワトル用の装備だからタラントス討伐なんて無理だし。しかもこんな時に限って、威嚇爆竹切らしてるんだよね……」
状態異常には強いが防御力は低い今の装備では、タラントスの一撃を食らっただけでゲームオーバー間違いなしである。おまけに獣避けもないとあってはひたすら逃げるしかない。……それなのに。
「逃げ切れるポイント、間違えるなんて、もう……」
自然と溜め息がこぼれる。落ち込みながらも足は止めない。
まだ。まだ、チャンスは残ってるはずだから。
徐々に重くなってきた足に力をいれ、タイミングを図る。ちらりと肩越しに見やったタラントスは、頭を極端に低めた前傾姿勢で追いかけてきていた。
追い付かれる前に……いけるだろうか。
「――ここだっ!」
男は度胸、女だって度胸だよね!
左右から倒れている木の直前で、私は体を倒し、一気に前方へと滑った。
上手くスライディングが決まって、倒木の隙間を縫ってその先へと出ることに成功。タラントスは一瞬ためらったらしく、足を止めた。
獲物を逃す気はないようですぐに倒木を乗り越えはじめたけど、これで数分稼げた!
思わず笑みがこぼれる。でも、ここで油断するわけにはいかない。
私は足を止めずに林の中を駆け抜けた。
そのまま走っていると、すぐにせせらぎの音が聞こえてきた。木立の隙間から垣間見えるのは、陽光を反射してきらきらと輝く幅の広い川である。
眩しさに目を細めながら、ようやくここに来れた、と私は安堵の吐息を吐いた。
川の向こうには街道がある。町や道には獣が出てこれないので、そこまで行ければ安全なのだ。
少し希望が見えてきた。これで今回の狩りでやっと手に入れたレアな材料を失わずに済むかもしれない。
僅かな希望に表情を緩め、川に辿り着いた私は丸太橋に足を乗せた。
このゲーム、アクションの自由度は高いのだが、唯一、水に対しては全く対処が取れない。完全装備が基本な為、水に落ちたら《沈む》。つまり、即ゲームオーバーだ。
とんなに急いでいてもここは慎重に行かなくては。
――しかし、ついていない時はとことんついてないものらしい。
「ええっ!? ちょ、なんで!?」
川の向こう岸の林に見えた巨大な蜂の姿。本来ならもっと東側にいる筈のそれを見て、私は丸太橋の上で足を止めた。
――どうする? 一端戻ってやり過ごすしか無いかな……?
あの蜂は必ず集団で動く特性があるため、なんの備えもない状態で見つかるのはどう考えてもまずかった。
ゆっくりと後退り、橋を降りて隠れようとした私だが。
「――やばっ!!」
耳に届いた咆哮に振り返ると、茂みから姿を現す灰色の恐竜。タラントスだ。 しかも、今の咆哮で蜂にも気付かれてしまった!
蜂が羽を震わせる。羽音で集まったのか、一斉に林から飛び出してくる蜂の群れ。
――急いで向こう岸に渡れば、なんとか……!
それでも諦めずに走ろうとした私を、飛来した蜂の針が襲う。
「くっ! ――あっ!?」
片手に持つショートソードを振り回した私の足が。丸太橋から、滑った。
――終わった。
ブラックアウトする視界の中、ざあざあと流れる水音と蜂の羽音が酷く耳障りに感じていた……。
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