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トラックを走らせる。数字は『712』まで斜線が引かれた。コーヒーで眠気を拭いながら配送業者の仕事をする。
この仕事を得るまで大変だった。何社もの面接で落とされ、何年もコンビニや引越し業者のアルバイトで食いつないできた。自分だけでなく、家族を養う為に。
福岡、大阪、名古屋、東京、茨城、岩手、北海道、どこに行っても『神楽坂慎吾』を知る者はいなかった。
そして静岡で『834』に斜線が引かれる。ボールペンのインクが無くなり、買いに入ったコンビニで『835』と『836』にも斜線を引けるようになった。
手帳に書かれた数字が次々に線で消されていく。その数字が『1000』に近づくにつれて肯定し始める自分がいた。
『神楽坂慎吾』は存在しない。
そう思い込めるようになってきた時だった。
『995』に斜線を引こうと公園のベンチに座った時、後悔した。
ここは、『彼』が住む町だ。
「もしかして、慎吾か?」
顔を上げる。その眼に旧来の友人が映った。
「やっぱり、慎吾だ…。」
後悔は遅い。受け入れたくない現実を受けて、口を開けたまま固まってしまう。友人も口を開いたまま動かなかった。
数秒見つめ、友人が破顔した。
「慎吾!」
慎吾の名を『友人』が呼んだ。『俺の名前』を呼んだ。
『神楽坂慎吾』が発見された。996人目にして、『自分』を見つけられてしまった。
「私、アイドル目指そうと思う。」
娘に言われたその一言は、今まで自分がしてきたことの天罰だと思った。
夕食後、活発な笑顔で同意以外を求めない態度を見せてきた。
「お母さんは応援するって言ってくれたんだ。お父さんも応援してくれるでしょ?」
応援したい。その思いは、自分の過去のせいで消えてしまった。
「駄目だ。」
NOを突き付けられた娘の表情が変わっていく。驚き、困惑、悲しみ、怒りと変容して言葉のトゲが向けられる。
「どうしてよ。家族に迷惑かけないようにするから。」
「駄目だ。…そんな、不安定で曖昧なものを仕事にするんじゃない。」
「何でよ。お父さんとお母さんが付けてくれた名前だって、アイドルを目指してもいいじゃない!」
娘の『美歌(みか)』が怒る。確かに『美歌』と名付けたのは自分だ。
「お父さんなんて、もう知らない!」
そう言って娘は家を飛び出した。妻は娘の行き先を知っていた。娘の幼馴染みの女の子の家に泊まっているとのことだ。
「美歌を応援してあげなさい。」
妻に言われた。けれど首を横に振って唸る。どうしても肯定できない。娘にではなく、自分の過ちを。
「駄目だ。俺のせいで、何を言われるか分からない…。ましてや、アイドルなんて持っての他じゃないか…!」
「自意識過剰よ。誰も貴方のことなんて覚えてないわ。」
「マスコミは直ぐに駆け付ける!あいつらは鼻がいい。俺のことがバレれば美歌が傷付く…。」
頭を抱えてしまう。その手を、妻は優しく握ってくれた。
「美歌を信じましょう。きっと大丈夫だから。」
妻の顔を見る。不安に思う時、いつも助けられてきた。けれど、これだけは自分でけじめを付けたい。
「…10日くれ。」
「え?」
「1000人くらいに聞けば、いいよな。神楽坂慎吾を知ってるかどうか、それで全員知らなかったら俺も安心して美歌を応援できる。だから10日くれ。」
妻が呆れた様子で溜め息をつく。自分でも馬鹿なことを言っていると思う。それでも『過去の栄光』が『娘の汚点』になるのならば、その不安を少しでも取り除きたかった。
「行ってくる!」
急いで職場に向かう。巨大な愛車に乗って、1000人を探す。
その旅が、990人目で終わりを告げた。罪は消えない。
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