『腰抜け』17年目

3/6
前へ
/6ページ
次へ
友人の樽山勉(たるやま つとむ)とは高校からの付き合いだ。今も時々連絡を交わす。そんな彼と大学の時に作ったのが『クローズ』だった。 ヘビーメタル系のバンドを組み、神楽坂慎吾は『SHINGO』と名乗ってドラムを担当していた。 最初は楽しかった。鳴り響く轟音。針千本のように刺さるリリック。人を蔑み罵る『ディス』で心を沸騰させ、観客と一体となって会場を震わせる感覚は今でも覚えている。 だが、自分の中での音楽感は妻と会うことで変わっていった。 妻はフルートの演奏家だった。共通の友人を通して知り合い、妻の演奏会に行った時、心の底から惚れた。妻にも、妻の音にも惚れきった。 それから轟音が苦手になっていった。心地良い高音が好きになり、叫び声や重低音が耳障りに感じてきた。 その時から次第にバンド内で喧嘩が起きるようになった。樽山と揉めたことも何度かあった。 そんな折、妻が妊娠した。それが人生の転換点になった。「女の子が生まれる」と言われた時、父が人を攻撃するような歌を歌っていては駄目だと思ってしまった。 女の子が生まれると分かったその日にバンドを抜けた。真っ当な職に就こうと考えた。 しかしどこに行っても『SHINGO』の名が付き纏った。職歴に書かざるを得ないその事実は会社の印象を汚すと考えられてしまい、不採用通知は百社を超えた。 『クローズ』の新ドラム担当が決まっても自分の就職先は決まらなかった。娘の美歌が生まれても就職先は決まらなかった。 毎日朝の家事を一通り終わらせたら昼に面接に行き、夕方に二時間だけ娘の世話を妻と代わり、夜はバイトに行く生活だった。 妻にも辛い思いをさせてしまった。娘の世話を一日中一人でさせてしまった。いつも眠そうに、けれど笑ってくれる妻を見て焦った。 結局、サラリーマンにはなれなかった。けれど運送会社には感謝している。今は家族の時間を作ることができている。 娘の名は妻と二人で考えた。俺は『美音(みおん)』が良いと言ったが、『歌』の字が良いと妻に言われて『美歌(みか)』になった。俺とは違う、美しい歌を歌ってほしい。 だから、俺は『SHINGO』の過去を封印した。娘の為に、妻の為に、家族の為に。 しかし天罰は下った。美歌がアイドルになり、父が『SHINGO』だとバレれば必ずメディアは取り上げる。蔑み罵るリリックで有名になったヘビメタバンドの娘がアイドルをしているとネタにされる。 娘が傷付く姿を見たくない。だから『神楽坂慎吾』は『SHINGO』ではないことの証明を1000人に託したのだ。 「…そうか。美歌ちゃんが。」 樽山とベンチに座る。手帳は『996』で止まった。
/6ページ

最初のコメントを投稿しよう!

0人が本棚に入れています
本棚に追加