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家に着いたのは午後9時を少し過ぎた頃だった。
リビングには妻と娘がいた。娘はふてくされていたが、大人しく椅子に座っていた。
「…お帰り。」
「…お父さんも、お帰り。」
「ただいま。」
娘の向かいに座る。そして、手帳を開いた。
「母さん。神楽坂慎吾を知っているか?」
「ボケちゃったの?お父さんのことでしょ。」
「美歌。神楽坂…」
「バッカみたい。」
ペンが止まる。娘は手元にある手帳を引ったくってペラペラとめくった。
「本当に1000人に聞いてきたの?今の馬鹿みたいな質問。質問された人が可哀想。もっと時間を有効に使いなよ。」
「…これで、1000人目だった。」
「で、どうしてこんな無駄なことしたの?お母さんは教えてくれなかったから。」
唾を飲み込む。ここまで逃げてきた。十七年間『腰抜け』な人生だった。だけど、ここで終止符を打つ。
「父さんも昔、音楽をやっていたんだ。美歌とは違う種類の音楽なんだけどな。」
「ふぅん。で?」
「『クローズ』って知ってるか?」
「ああ、ヘビメタでしょ?知らない人はいないでしょ。友達にも聞いてる人いるし。それが何?あ、もしかしてお父さんがそのコピバンやってるとか?」
「お父さん、『クローズ』の最初のドラムをやってたんだ。」
娘の動きが止まる。用法は違うがまるで二の句が告げないようだった。
「だけど、母さんと会って、ああいう音楽が駄目になってしまって。それで美歌が生まれる時にバンドを辞めたんだ。」
「なん…で…?」
娘から漏れた言葉は至極真っ当だった。
「美歌が、『人を罵倒する音楽をしている人の娘』だと言われたくなかったからだ。勿論、ヘビメタ全部がそうだと言ってるんじゃない。でも、お父さんがいた『クローズ』はそういう、過激な歌が多かったんだ。けど就職先も中々見つからなくて母さんに迷惑をかけてきた。」
「本当にね。」
妻からのトゲが心に刺さるが喋り続ける。
「美歌の夢は応援したい。けど、もしアイドルとして成功したなら、そういう父親の娘だとマスコミが絶対騒ぐ。その時に傷ついた美歌を見たくなかったんだ…。」
「何でそれを早く言わないのよ!」
娘が叫んだ。怒られる覚悟は何度もしてきた。全ての反感を食らう覚悟だ。
しかし、娘の目は輝いていた。希望に満ちた表情は予想していなかった。
「お父さん凄いじゃん!何で早く言ってくれなかったの!あの『クローズ』でしょ!超有名だよ!」
「美歌…。怒ってないのか…?」
「そりゃあ黙ってたのはムカつくけど、お父さんも芸能界にいたってことでしょ?同業者なら悩みを話しやすいし分かってくれるじゃん!も〜どうして早く言ってくれなかったの。でも、親の脛齧りで売れたくないからアイドルになって成功するまで黙っててよ。」
一人ではしゃいでいる娘を見て、樽山の言葉を思い出す。一番信じられていなかったのは自分だった。
「ヘビメタとフルートの娘でしょ?ヤバくない?ヘビメタもフルートもいけるアイドルとか絶対面白いって!」
「…あぁ、そう思うよ。お父さんも、応援する。」
これから先で何が起こるかは分からない。自分の過去が障害になる可能性も事実だ。しかし、今こうして娘の笑顔が見られていることも事実だ。
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