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今でも覚えている。始まりはコンビニの店員だった。
「神楽坂慎吾(かぐらざか しんご)を知りませんか?」
夜勤で眠そうな三十代男性は答えた。
「知りません。」
それを聞いた時、思わず口元が緩んだ。妻が言っていたことは正しかった。
深夜二時が四十歳手前になって辛くなってきた。缶コーヒーを買ってトラックに乗り込む。コンビニエンスストアの明かりは運転席までは届かないようで、ライトを付ける。
手帳を開き、妻の字で書かれた数字の『1』に斜線を引いた。
先ずは一息つく。そしてコーヒーを一口飲むと、神楽坂慎吾を探す為にトラックを発進させた。
行く先々で神楽坂慎吾について尋ねた。老若男女問わず、僅かな情報でもかき集めようとした。
しかし神楽坂慎吾を知る者はいなかった。
喫茶店に入ってカウンター席に座り、コーヒーを頼む。砂糖とミルクを入れてもらったコーヒーがテーブルに置かれ、持ってきた女性店員に尋ねる。
「神楽坂慎吾を知りませんか?」
女性が申し訳なさそうに首を横に振る。コーヒーが甘い。
『496』に斜線を引く。溜め息をつきながらレジカウンターの方を向く。見知ったイベント用ポスターが貼られていた。
「マスター、ヘビメタとか聞くんですね。」
カップを拭いている六十歳過ぎの男性に尋ねる。男性は頷いてから物腰柔らかく答えた。
「はい。意外な趣味と言われます。中でもそこに写っている『クローズ』が昔から好きでして。」
ポスターにはベビーメタルバンドの『クローズ』が写っている。ボーカル、ギター、ベース、ドラムの四人組だ。十七年前にドラムが脱退し、その後すぐに新しいドラム担当が参入したことをよく覚えている。
「お客様も、ヘビメタがお好きで?」
「全く。寧ろ嫌いな方だ。騒音に聞こえてしまう。…ああいや、気を悪くさせたらすまない。友人がヘビメタ好きでね。」
「ほぅ、どのバンドがお好きですかな?」
「そのポスターにデカデカと写っている四人集ですよ。」
コーヒーを飲む。砂糖とミルクを入れたコーヒーは、まだほんの少し苦い気がした。
「ところでマスター。神楽坂慎吾という人をご存知ないですか?」
マスターは少しだけ考えてくれた。けれど答えはいつも同じだ。
「…いえ、聞いたことがありませんな。」
『497』への斜線はトラックに乗ってから引いた。
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