名前はいらない

7/7
前へ
/7ページ
次へ
 硝子越しに相対する男は髪を振り乱し、大きく身震いした。落ち窪んだ眼窩から生気のない視線が行ったり来たり、焦点を結ばずあちこちを彷徨う。こちらには一瞥もくれない。 「喋りすぎて喉が渇いた。面会時間も終わりだ。今度こそ帰ってくれ」 「最後に、お伺いさせてください」  ここで引くわけにはいかない。つっぱねると、男は無言で先を促した。さっさと用を済ませようという魂胆だろう。 「先日、あなたが暴行を働き全治三週間の怪我を負わせた男に取材しました。顔見知りでもない男に急に難癖をつけられ殴られた、墓参りを邪魔しやがってとわけのわからない罵倒をされたというのが、男の言い分です。男が出かけた先は息子が通う小学校で、墓には近寄ってもいない、それに息子とキャッチボールしていて、転んだら危ないと大きめの石を移動させただけで怪しい行動は一切していないと主張しています。そして昨日、その小学校に警察の捜査が入り、校庭のいちばん大きな桜の木の下が掘り返され、ひとりの白骨化した遺体が見つかりました。骨格から成人していない女性のものと見られ、現在鑑定が進められています」  男は口を挟まない。あれだけ饒舌だったのが嘘のようだ。ならば、こちらから畳みかけるのみ。 「およそ八年前、当時十一歳だった××××さんの捜索願が届けられました。彼女は現在も見つかっていません。あなたは彼女の行方をご存じですね?」  核心に迫ったが、男ははっきりと首を振った。淀みも躊躇いもなく、男自身嘘などついていないと本気で思っている顔だ。 「そんな名前のある女、俺は知らない」  未解決事件としてお蔵入りになりかけていた女児誘拐事件は、傷害罪で逮捕された男の供述をきっかけに突如光明が差したかと思われた。しかし、男は女児が名前を有していた事実を頑なに否定する。男は女児を「あの子」として永遠にしてしまった。名前という記号は男にとってもはや意味などない。  警察は手を焼いているようだが、われわれからすれば特大スクープだ。足繁く通い、男から情報を引き出した甲斐があった。  ところで、と男はすこぶる不機嫌そうに顔を歪め、耳に指で栓をした。 「雨はまだ止まないのか?」 「とっくに止んでいますよ」                 Fin.
/7ページ

最初のコメントを投稿しよう!

24人が本棚に入れています
本棚に追加