名前はいらない

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 日常の綻びはぽつぽつと、確実に俺たちを蝕んでいった。綻びは俺だけでなく、あの子の身にも起きていた。俺は勃起不全になった。女遊びはとうに足を洗っていたが、それ以前に女で昂奮することに嫌気がさすようになっていた。一方で、あの子はときどきはっとするほど艶めいた表情をする。俺のお下がりの余ってだぶついた袖や裾からひとまわり小さな手足がのぞくと、よけいにあの子が女であることが際立つようで、俺はその瞬間だけあの子を心底嫌悪した。  あの子を嫌悪するたび、俺の中の凶悪な俺がゆっくり目覚めていくのが自分でもわかった。ああ、俺はやはり親父の息子だった! 気に入らないものは排除しなければ気が済まない、度を越した潔癖症。それが親父だった。俺はあの子のかすかに丸みを帯びはじめた胸をめった刺しにして、高笑いする夢を何度も見た。あまつさえ、うなされる俺を心配そうに見つめるあの子の首に手をかけ、力を込めるところまでいった。あの子の首の骨が俺の握力に砕ける瞬間の手応えを想像すると、どうしようもなく昂奮して、俺はおのれの血を呪った。  ……そしたら、あの子はか細い声で言ったんだ。殺してと。女になりたくない、あの名前で呼ばれていたころに戻りたくないと、あの子は息が苦しいせいで生理的に湧く涙に顔を濡らして、悲痛に訴えた。そういえば、俺はたしかにあの子が女への階段を上りはじめたその日まで、あの子を女扱いしたことはなかった。もしかしたらそれがあの子を救っていたのかもしれない。  ああ、五月蝿い五月蝿い五月蝿い。せっかくのあの子の声が、かき消されてしまうじゃないか。これだから雨は嫌いなんだ。
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