第五章(その一)学問の府

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第五章(その一)学問の府

 仕事はあと二つ。  田舎が恋しようで都会が名残惜しくもある。 「ま、たまに来るから良いんだけどねっと」  神原はシェラトンのラウンジでコーヒーを飲みながら全国紙を読む。  今日の予定は国際関東大学への訪問。  後は桜庭邸へのお宅訪問。  精神医学は医学部の分野だ。  まさか心理学部だったとは。  これまで心理カウンセラーには国家資格はなかった。  2017年に公認心理師法が施行された。  これにより公認心理師が誕生。  民間資格は様々なものが乱立していたが、統一へむけて動き出す。  民間資格として臨床心理士があるが、いずれも大学の心理学部への受講が必要になる。  民間組織による臨床心理士の資格開始は1988年。  昔はカウンセリングは精神科医が行っていた。  カウンセリングという言葉や概念が入ってきたのは戦後まもなく。  ミッション系の大学で海外からの知見として導入された。  教養としての心理学である。  日本は戦後の大混乱。  復員兵士への対応は不十分だったが、戦勝国では別だ。  まして本土を戦禍から逃れた米国にはバックアップする人的リソースがあった。  激しい戦場を経験した兵士に対するケアが開始されたらしい。  朝鮮戦争、ベトナム戦争。  いかな大国とて戦に連戦連勝はない。  国際法上、勝利したとしても大量の傷痍軍人を抱えてなにが勝利か。  神原の祖父は一関空襲で命を奪われた一人だった。  市から出兵した2万5千人には祖父の兄がいた。  大叔父は桜花に散った。  いずれも帰らぬ人になったが、祖父は若くして子をもうけていたので神原まで命のバトンがつながれた。  ん?ちょっとまて……。  回想を打ち切る。  ベトナム戦争末期に院生?  ということは今何歳だ?  おいおい……。もう70越えてるぞ……。  あらためてスマホの写真をみる。  どうみても五十代かそれより若くにしか見えない。  蘭圭堂の写真を見せろという指示はこのことか!  メッセージを送る。 「前回送った写真は桜庭青年から提供されたもの? それとも病院にいる件のプロフェッサーか?」  返信が来る。 「プロフェッサー」  まあいい。桜庭邸にいるご母堂に写真を見せればすぐに解決する。  ホテルの玄関にタクシーが止まったのがみえたので腰をあげた。  関東国際大学は品川駅からバスに乗り換えて30分ほどのところにある。  昔の土地勘を使ってレンタカーで移動してみようとも思ったが、自信が無かったのでタクシーにした。  大学の正門前。  料金を払うと、1時間後にまた来てほしいと運転手さんにお願いして降りる。  正門警備員に学部棟と階数を教えて貰う。  夏休み期間中のはずだが、敷地内は学生が多く歩いている。  運動場からは声援が聞こえてくる。  低いドラムの音は軽音サークルの音かな?  一瞬、推理小説研究会の部室を探そうと好奇心がわいたがやめた。  敷地が広大で活気がある大学というのはいい。  東北東にならんだ建物の三棟目に入る。  この三階に文化人類学研究室の教授の部屋がある。  昨日のうちにアポは取ってある。  わずかだが時間をとって貰った。  ドアノックすることを想像していたが、ドアが開け放たれていている。  人気がない。ちょっと不用心じゃないか?  入り口に突っ立っているのも間抜けなのだが入室が躊躇われ、しばらく室内を見渡す。  すると人の気配に気がついたのか奥の部屋から研究員が顔を出したので声をかけた。 「失礼します。こちらに柳下教授はいらっしゃいますか?」 「先生ならそちら」 と右奥の扉を指さされた。 「え?勝手にいいの?」  ひらひらと手をふり 「大丈夫大丈夫」  随分軽いノリだ。  おずおずと室内に入り研究員の指す扉まで。  緊張してもしょうがないが、どうも先生と呼ばれる職業は苦手だ。  そういえば……。  (蘭ちゃんも先生って呼ばれているんだったな)  腹の底から笑いがこみ上げてきた。  一気に緊張が吹き飛んだ。  ノックすると 「はい。はいっていいよ~」  研究員に負けず劣らず暢気な声が聞こえた。  ドアを開けると窮屈な部屋に処狭しと本が溢れている。  書庫に収まり切れていない。  デスクの書類の山からひょっこり顔を出す。 「ちょっとそこのソファに座ってて。」  ソファにも本が積まれているが崩れないように座るスペースを作る。  先ほど顔を見せた研究員がコーヒーを二つ運んできた。 「おかまいなく」 「インスタントですからお気になさらず。」  眼鏡をかけた小柄な老人が腰を屈めながら椅子から起ち上がる。 「座ってばかり居るのは健康に悪いんだが、本を読み出すと止まらなくてねぇ。えっと……誰だっけ?」 「昨日電話した神原です。こういう者です。学問の聖域にふさわしくないですが……」 名刺をすっと差し出す。 「ああ、探偵さんね。今時珍しいから思い出した。あ、コーヒー飲んでねインスタントだけど。」  研究員と同じように自嘲する。 「教授だなんだって偉そうに言ってもこのとうりだよ。資金もないからエアコンも直せない。」  だから色々開け放しているのか。  宮仕えは辛い。  話が暗くなるのは嫌なので話題を変える。 「しかし凄い蔵書ですね。」  ぐるっと見回す。 「なに。一気に買ったわけじゃないからね。一つ一つ買ってったらこうなった。あれだ。本というものは群生すべき存在だね。」 「それは文化人類学者としての知見ですか?」 「ほ、ほ、ほ。ただの古書好きの経験だよ」  インスタントでも旨いコーヒーは旨い。  後で商品名を聞いておこう。 「貴重な時間をとらせるのもなんですので、本題に」 「で、なんだっけ?」  口ひげをぽりぽりとかいている。  こういう教授がいるなら大学というのは楽しいかもしれない。 「以前、ここにいた桜庭という学生の話です。民俗学を専攻していたとか」 「桜庭? 桜庭ね? うーん。」 「存じ上げませんか? あなたが在籍していたときと一致するんですが。」 「いや。知ってるよ? どっちの桜庭なの?」  盛大にずっこけた。 「はい~? そんないっぱい居ましたか!」  しまった東北では珍しい名字だからてっきりすぐ見つかると思ったのに。初歩的な失敗をしたか。 「大学にはいっぱいいるだろうけど、うちの研究室にいた桜庭なら二人しかいないよ。どっち? お父さんの方? 息子さんの方?」  絶句して息を止めてしまった。  一言絞り出す。 「親子?」 「そう。顔立ちがそっくりでね。専攻も一緒だった。お父さんとは同期。息子は教え子。父親の研究のバトンを受けて続けたんだなぁ。孝行息子だよねぇ。」  混乱してきた。 「ちょっちょっとまってください。この写真を見てください。」 背中にじっとり汗がにじんできた。 スマホを取り出し、写真を探す。 「この写真を見てもらえますか? この写真はどちらですか?」  眼鏡をかけ直して凝視する。 「どれどれ。うーん……。どっちだろ……。」  またしてもずっこけてしまった。 「そんなに似てますか?」 「そうじゃないんだ。似ていないかったと思う。並んでたらすぐわかる。でも最後に会ったのはずんぶん前なんだよ……。どっちがどっちだか。うーん。」  写真を見せれば一発かと思ってのだが、甘くない。  人の記憶はいつも変質している。  記憶。  ムーア医師との会談を思い出した。 「ところで彼……。いや親子どっちでもいいのですが、どのような研究を?」 「人から人に伝承が伝播する過程で変質する情報量の調査。彼は伝承のことを『呪い』とも言ってたよ。」 「しかし彼はその後カウンセラーの道を選びました。関連性はありますか? 彼……。あ、そういえば教員免許を取ってカウンセラーになったのはどちらです?」 「どっちも同じ進路だよ。親子だよねぇ。」  この線もだめか。  続きを促す。 「伝承は聞いた瞬間発芽する種子だと。子守歌や夜寝る前の物語にも。寓話、説話、日常の至る所にある。異端者を弾くための鬼の概念。まぁこれだけならどこの研究室でもやってる。でも彼らはしようとしていた。詳しくは戸棚にある息子の方の論文を読むと良い。親子の一つの集大成だ。」  紙束を渡されてちょっとショックを受ける。  これを読むのか……。  難しそうな単語がいくつもならんでいる。  肉体労働を旨とする探偵は丸投げを決意する。  ちなみにさっきの説明もほとんど理解していない。  速達で蘭ちゃんに送っとこう。今の時間なら明日には届く。 「教授、今日は貴重なご意見ありがとうございます。」 「この研究室にお客さんは少ない。僕こそ楽しかった。」  忘れるところだった。  紙袋を差し出す。 「教授、これは今日のお礼です。生ものですからお早めに食べてください。」 「なにかな、なにかな。ん、団子?」 「地元の『胡麻すり団子』です。先生と名のつく人にはいつも送っています。」 「ほほう。ああ『ゴマをする』とかけてるのか。こりゃ参ったねぇ。」  今日1番に破顔する。  探偵は指を一本立てる。 「一つご注意を。必ず一口で食べてください。囓ると中身が勢いよく飛び出す。」 「ふはははは。ありがとう、ありがとう。さっそく院生と食べるよ。」  一礼して席を立つ。 「探偵さん。もし同期の桜庭に出会ったら会いたいと伝えてほしい。彼の研究の成果を見たい。」 「教授、わかりました。必ず伝えますよ。」  昔からそうなんだ。  よく人から頼まれる。  さぁ次は桜庭邸だ。  ちなみにインスタントはネスカフェのクラシックだった。 (つづく)
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