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第五章(その五)教外別伝
大学正門で待って貰っていたタクシーに乗り品川駅へ。
そこから横浜までもどった。
ホテルには帰らず喫茶店にはいり神原は今までの情報を整理していた。
だいぶ外堀は埋まったが、まだはまらないピースがある。
一つ、桜庭の父と祖父の関係
二つ、桜庭学校の実態
三つ、桜庭学校の生徒、その後の調査
四つ、桜庭の母親はどこまで関与しているのか
今までの情報を元に、一つ目と四つ目のスプリットは母親に会うことで一気に方がつきそうだが、二つ目と三つ目のペアはその前に調査したい。
まだ時間はあるから、教育委員会から手を回して桜庭先生が赴任していた学校を回ろうか。といってもこの時勢である。部外者がそうそう教育現場に足を踏み入れられない。
切り札を使う。
蘭圭堂のリーディングで登場した仙台の教え子の家族の連絡先を聞いておいて貰った。あとは地道にたどっていく。
教えられた番号に電話をすると最初は訝しがられたが、桜庭誠一郎の名前を出すと態度が一変して親身になってくれた。
「奥さん、この度はお気の毒でした。」
「わざわざどうもありがとうございます。桜庭さんになにかありましたか?」
「いえいえ。私は誠一郎君に頼まれて、桜庭学校の生徒を訪ねてあるいておるのですが。誠一郎君も大学生活中に全員とはいかないまでもご挨拶したいようなんです。誠一郎君は夏期講習で忙しいそうで、親戚の私が代わりに住所録を作っております。」
「そうでしたの。お父さんに似てご立派になられて。」
「それでですね。今、神奈川におるのですが、お近くに桜庭学校の生徒の方いますかね? お土産などを持参しておりまして、その後に誠一郎君も正式に訪れる段取りになってましてね。」
古い住所だからいるかわからないけれどと前置きした後、三人ほど紹介して貰った。丁寧にお礼を言って電話をきる。
(最近嘘が板についてきたなぁ。嫌だなぁ。さっきの電話だって聞く人が聞いたら詐欺の電話だよなぁ……)
一人でしょぼくれているわけにもいかない。
とりあえず教えられた住所に向かってみる。
川崎市に二人あとは藤沢市だった。
川崎の住所はアパートだった。
桜庭の名前を出しても、こちらは見ず知らずの人間だから長話はできない。近況だけ聞ければ御の字だ。
しかし、アパートに着き部屋番号を確認すると名字が違っている。これは引っ越したに違いない。一応、惚けたふりをして部屋を訪れてみた。
チャイムを鳴らすとドアチェーンごしに若い男性が顔を出す。
「こちらは三浦さんの住所で間違いないですか?」
「違いますよ。」
急いで閉められる前に今度は堂々と探偵とかかれた名刺を突き出す。若い人の好奇心に訴える作戦である。名刺を凝視したあとドアを一旦閉めチェーンが外される音がした。
大学生らしい若者が無精ヒゲをこすりながら出てくる。
「俺、数ヶ月前に引っ越してきたんだけど、前に住んでいた人なら知ってるかも」
名刺をぽけっとに入れるとそう切り出してきた。
「どこか行き先でもわかりますか?」
真顔で首をふる。
「そうじゃなくて、ここ事故物件なんですよ。だから格安なんです。前の家族の方の息子さんだったかな? この部屋で自殺したらしいですよ。俺、そういうの全然気にしないから、そういう物件探して渡り歩いてるんです。」
聞かれもしないのによく喋る。
だが助かるので横やりはいれない。
賃貸物件の告知義務か。
「そうでしたか……。まいったなぁ。」
顔色を変えずに話を合わせたが、内心は飛び上がらんばかりに驚愕していた。
「なに? 事件性があるから探偵が動いてるの?」
「事件性があるなら探偵じゃなくて警察が動いていますよ。では失礼します。お邪魔しました。」
「ふーん。まぁ家賃が下がるなら問題なけどね。この前もスーツの人が聞きにきたなぁ。警察じゃなかったけど」
一度去りかけたが、再び踵をかえす。
「警察じゃない? どこのものか名乗りましたか?」
「確か保健所だったとおもうけど……」
厚労省! 自殺に絡むような話に保健所が絡むわけがない。
「ちなみに答えられる範囲でなにか聞かれました?」
「いや身分証を見せてから部屋を調べたいって。大家さんからも前もって言われてたから断れないよね。何しろ安いし。」
安いからという言い訳にはならないと思うのだが、彼にとってはプライバシーより優先順位が高いのだろう。
「天井小突いたりクローゼットの奥を調べてたけど、すぐ帰ったよ。謝礼もしっかりいただいた。」
ここまで損得勘定が明瞭だと清々しい。
本来ならば三浦一家に渡すはずだった菓子折を彼に渡す。
「本当はここに前住んでいた人に渡したかったんだけど、どうぞ食べてください。色々教えてくれたお礼です。生ものなんで早めに食べてね。今夏だし。」
「いいの? なんかここに住み始めてからツイてるなぁ。」
ここまでポジティブなら幸せだろう。
事故物件も形無しである。
こんどこそアパートを後にした。
もう桜庭学校の方の調査はやめにする。
これ以上掘り進んでも……多分良い結果は……何もない。
次は本丸の桜庭家だ。
※※※※※※※※※※
「これで自殺者は何人です?」
『数えたくないから学校の線はもうおしまいにするよ。』
芙月和尚と会っているときに神原さんから電話入ってここまでのことを教えられた。
「前回の米軍から随分と肉薄してきましたね。」
『まぁね。ただ道順にそって聞き回っただけ。とにかく本丸にいくけど、そっちは何かあった?』
「いや神原さんの情報を補足するものばかりです。進展はないですね。厚労省の件はこっちでなんとかします。」
『そうなの? じゃあ無視するね。』
軽い挨拶をして通話を終える。
ため息をつくと和尚が心配そうに声をかける。
「察するに薬物関係のなにかかな?」
「別件かと思ったら繋がっていました。」
「因果が巡るのだな。」
やれやれと和尚は嘆息する。
気づいたことがあったので率直に尋ねてみる。
「和尚はPTSDという言葉はご存じですよね?」
「無論。心的外傷後ストレス障害のことだな。」
「はい。仏教的には……。いやこれは和尚個人の見解で良いのですが、そういった悩みの方にはどう接しますか?」
「君らしくない迂遠な言い方だな。医者に診せる以外でということかな」
「はい。」
「状況にもよるが、例えばどういった場合だ?」
一瞬、禁を破って何もかも打ち明けたくなった。
しかし思いとどまった。
たとえ心許したものであっても伝えていいことと悪いことがある。話す方は心の重荷から解き放たれるかもしれないが、今度はその重荷を聞かされたほうが背負うことになる。
なんでも話すのが信頼という言葉は真ではない。
思いやるからこそ話せないこともある。
ましてや彼は僧である。
惑わせてはならない。
「そうですね。忘れがたい記憶などについてです。高校生などどうでしょう。いじめや突然の親しい人の死。昨今は瞑想の本などが流行ってますね。」
ふんと鼻を鳴らされた。
「我々が行う禅と瞑想は似て非なるものだ。」
「不勉強で申し訳ないです。そうなんですか?」
「それこそ不立文字である。瞑想は心の平安を求めるものだろう? しかし禅においてはそうではない。その先にある”空”である。」
不立文字、空、共に名称は聞いたことがあるが意味は知らなかった。
「不立文字とは文字で伝えられぬ教えである。お釈迦様が直弟子、摩訶迦葉へ伝えたのがその不立文字。それが杯から杯へ水を移すように伝わったのが禅である。中国では達磨大師が伝えたとされる。本邦に伝わったのは中国で派生した一派のものだな。」
話が脱線してしまったな檀家に聞かれたらまた怒られると言いながら芙月和尚は手のひらで顔をぺろりとなで静かに笑った後、切れ味鋭く本質に入る。
「記憶を制御する技術は今までも研究されたようだが成功した話は知らない。だが薬物と併用することでそれに近い形に持って行くことは出来るだろう。しかしこれもまた永遠ではない。もしそういう仕掛をしたものがいたら必ず安全装置をつけていたはずだ。」
「安全装置?」
「私ならそうする。いつか何かのきっかけでフラッシュバックのように沸き起こってくる。これを記憶障害の一種で、記憶想起という。なら記憶を底に沈めると同時に、もし湧き上がってきたら違う記憶と認知されるよう改ざんを行うのだ。」
消せないのなら変えてしまう……。
「記憶の改ざんなんてものは日常的に起こりうるし、例えば言った言わないで揉めることなど日常茶飯事。だから喧嘩がおきるし裁判にもなる。」
蘭圭はふむと首肯する。
「まぁ記憶が正確無比なら世の中の大半のトラブルが解決しますからね。」
「それこそPTSDになるような衝撃なら、自分自身を守るために記憶の改ざんを無意識に行うのではないか? 後はそれを補強してやるだけで良い。なぜなら人間の脳がストレスから抜け出すために導き出した最適解が幻覚として現れるという仮説があるからだ。先ほど電話で桜庭学校という言葉が聞こえたが、もしかして桜庭順一博士のことか?」
ここでその名前が出てくるのか!
論文は速達で明日事務所に届くはずだが待っていられなくなったようだ。
「私も学究の徒ではないから正確には引用出来ないが、確かそういう研究論文だったはずだ。仏教系の大学に講師でいたときにみた記憶がある。」
一つの図が浮かび上がった。
「和尚。その安全装置。そう便宜上定義しますが。それにより自死に至る可能性はありますか?」
和尚の眼光が鋭くなった。
「無論ある。プラスドライバー一つで組み上がるほど人間の精神構造はシンプルではないからの。現実と虚構の境界が曖昧になったときが一番危険だ。もちろん境界を越えても帰ってこられる人もいるがな……。」
高槻レポートにあった第一被験者という表現。桜庭誠一郎。
全てが彼を起点として始まっている……。
おそらくは桜庭学校より前、彼の父が亡くなった理由。多分もう高槻君には最後の絵がうっすらと見えているはずだ。それを盤石なものにするためにもう少し街の中間管理職として身を粉にする必要があるようだ。
「以前もおぬしはそういった顔をしていたな。それを拈華微笑という。」
和尚は呵々と笑った。
(つづく)
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