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第六章(その一)ウスケボーの誓い
「和尚。確認ですが御札と一緒に出回っていた薬物というのは?」
顔をぺろりとなでて答える。
「一つは海外の睡眠導入剤だったはず。もう一つは日本で認可されている頭痛薬だ。」
やはりと膝を打つ。
「その2種類を同時に服薬すると違う効果が現れるのですね?」
「ぐっすり眠れると言う意味で文字どうりの効果は約束されてる。しかし本人は気づかない。これは一種の自白剤、催眠導入の効果がある。寝ているのではない。寝ているつもりになっている場合があるのだ。睡眠導入剤の副作用については君は知っているだろう。」
「夢遊病のように活動し、起床すると覚えていない。」
「そのとうり。食欲を感じれば冷蔵庫をあさる。朝起きたら空っぽなんてこともある。」
疑問は全て解消しておきたい。矢継ぎ早に質問する。
「睡眠導入剤は向精神薬。薬事法に抵触するのではないですか?」
「そこがミソじゃな。この睡眠導入剤は厚労省の規定ではサプリメントの分類になっている。医薬品ではないのだ。だから税関でも引っかからない。」
強い強迫観念、自殺念慮にそこに薬物効果が現れ、とどめは呪術の御札である。最悪な材料が全てそろった結果の春の騒動だったのか。
「和尚はこの薬物についていつ頃知りました。」
「最近じゃ。薬物依存症センターからの通達があっての。頭痛薬が認可流通したのは20年ほど前から。サプリメントはおくれて10年前くらいからだろう。製薬会社は想定外といいたいだろうが、莫大な資金をかけて臨床試験を行っている以上それは言い訳にはならないわな。しかし鑑札を持ってる方は恩を売っておきたい。よってサプリメントの方を禁止回収に向けて動いているらしいがね。」
「そのサプリメント。誰でも手に入れられますか?」
「もちろん。ただ英米ではあんまり流行してないから英語以外の言語が必要だろう。」
それで八雲警部補はメアリネットワークを使いたいと……。
「厚労省の対応が後手に感じますがどうしてでしょう。」
「簡単な話だ。睡眠導入剤、頭痛薬ともに服用したものは望んだ結果が得られたからさ。よく眠れるし、常時不眠による頭痛にも効果があったろう。副作用を自覚出来ないんだよ。まぁこのところ面だって被害者はいないことになっている。今後は頭痛薬を新製品としてパッケージを変えて禁止事項が記載され手打ちかの。玉虫色というやつ。」
そういえばと蘭圭堂は思い出す。
丘の上の県立病院の医師との会話だ。
「先生。睡眠薬による睡眠と自然睡眠とでは質になにか違いがあったりしますか?」
主治医に苦笑されてしまった。
「笹川さん。あんまり難しいことは聞かないでください。それはまだ研究中の分野なんですから。答えられません。ただ自然に眠れることを優先するあまり睡眠薬に拒否反応をしめす患者さんがいるのも事実です。たかが寝ることで服薬することに抵抗があるんでしょうね。でもあなたならわかるはずだ。眠れるのなら何を犠牲にしてもいい方がいることを。」
「私もその口ですね。眠られるのなら死んでもいい。」
「最初にここにいらしたときのことを覚えていますか? あなたは24時間眠っていられる薬がほしいと言ってきましたよね。」
あのときは必死だったのだ。
とはいえ赤面してしまう。
「ちなみに開発されそうですか?」
「その時はまず私が実験してみて、その後笹川さんにお勧めしましょう。」
ジョークがわかる医師というのは押し並べて名医である。
「その時はお願いします。」
昔、診察室での会話である。
思考は戻り目の前の和尚の顔が像を結ぶ。
「他にはなにかないかな?」
和尚は湯飲みを大事そうに抱えている。
ここが帰り時だろう。
「今日はありがとうございました。いずれこの礼はさせて貰います。」
手を鷹揚にふる
「なんのなんの。拙僧に用ならばいつでもこい。連絡もいらぬ。わしがおらんでも雪さんがおるでの。話相手になってほしい。」
「こんど私の事務所みんなで来ましょう。厄払いでもお願いしようかな。」
「いろいろ憑いておるようだしの。払い甲斐がある。」
そういって芙月和尚はまた呵々と笑った。
庭には雪の姿が見えなかった社務所にいるのだろう。
顔を出せば長話になりそうなのでそのまま帰る。
蘭圭堂が駐車場でスマホを確認している頃、久常亜加里とメアリは二人で喫茶店にいた。
メアリはやぁと大きく手を上げて挨拶をする。
「珍しいですね。亜加里さんからよびだされるなんて」
メアリはスリムで背が高くショートカットの髪とTシャツにジーンズ姿は好青年に映る。
あながち間違いではない。
メアリは女性名であるが、身体は男性である。
本名はマリオン。
日本に来てから女性名のメアリの名で通っている。
ダイバーシティを求めるために十代の後半を他国の言語や慣習の勉強についやした。
理解ある両親の元、子供時分は快活に育ち、自分は女性であるという認識を少なくとも家では押し殺すことはなかった。
しかし大学を出て就職するころにはそうもいかなくなった。
彼女は女性として生きるためにこの国に来たのだ。
先進国の中では何かと人権後進国と揶揄される日本であるが、西洋諸国ではジェンダーの問題よりアジア人であるデメリットの方が大きかったので日本を選んだという。
亜加里は一度この国は生きづらくないかと尋ねたが
「Home is homeの精神だね」
と言われては日本人としては形無しである。
そして彼女は女性より女性らしい。
今の会社の面接で
「夜、女性を一人に置くわけにはいかない建前と女性であり細やかな気遣いができるという二つをクリアできる君に是非来てほしい」
という社長の鶴の一声で採用が決まる。
腹蔵なく正直に言われると心を打たれるのは世界共通のようで、以来懸命に働いている。田舎でも色んな国籍の友人ができ、日本を選択した自分に感謝した。
メアリは夜勤明けだが、昼過ぎには起きて日光をよく浴びるようにしている。ランニングから戻りスマートフォンの亜加里のメッセージをみて今に至る。
国道四号線沿いにあるホームセンターの裏。一軒家を改装した喫茶店「フルムーン」がある。
亜加里は先についてスコーンと紅茶を楽しんでいた。
「いいなぁ亜加里さん。私はパスタにしようかな。」
「メアリちゃん運動してたの? ああ、私も体動かさなきゃ……。」
口にしかけた二つ目のスコーンが罪悪感の塊に思えてきた。
実際はバターの塊で……。
結局同じ事か……。
「亜加里さんはスリムだよ。でも運動はした方がいいね。」
とメアリは綺麗な歯をちらりと見せて笑う。
それはそうとしてと前置きして
「メアリちゃん。実は相談があるの。」
と切り出す。
「まって! そういうのは食べるもの食べてからしよう」
「それもそうだね」
と二人で笑う。
ママさんがテーブルに持ってきたのは明太子クリームパスタ。
日本にきて初めて食べたが一瞬でその虜になった。
「凄い! 頼んでもいないのに食べたいものが来た」
「あなたいつもこれしか食べないじゃない」
とママさんも笑う。
亜加里はフォークを使うその手をじっとみていた。
優雅で逞しいピアニストのような指や仕草。
あらためて思う。
女子力が凄い。
「あの、亜加里さん。じっと見られると食べづらいのだけど……」
「ご、ごめんなさい。」
柄にもなくどきどきしてしまった。
メアリがナプキンで丁寧に口元を拭うのまって再び話を始める。
「蘭圭さんに頼まれたことはどう?」
「うん。もうわかったことがありますよ。亜加里さんに会うついでにそれも一緒に報告しようと思って。」
仕事が早い。きっと会社でも有能なのだろう。
「さすがメアリ。それでねもう一つ仕事が頼みたいの。ねぇ私と一緒に組まない?」
「亜加里さんと?」
「そう。」
「なんだそういうことなら喫茶店じゃだめだよ。今から飲みに行こう。」
食べるものを食べてご満悦といった感じだ。
「え、まだ日が高い。」
とびっくりする。
ずれた反応だ。
「お昼から営業しているバーがあるんだよ亜加里さん。」
それにと指を立てると。
「蘭圭堂さんが言ってたよ。亜加里さんと契約するには『ウイスカの誓い』が必要だって」
「それちょっと間違ってる。『ウスケボーの誓い』ね。」
どうやら二人の初仕事の相性はバッチリだ。
二人は立ち上がって駅前通りへくりだす。
(つづく)
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