声の君

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声の君

「あ……えっと。聞こえますか?」 「もちろん。今日もよく聞こえますよ」  返答が返ってきたことに、僕はこの上ない安心感を得ていた。 「ごめんなさい。少し聞き取りづらいかも知れないです」  埃っぽい空気を吸いたくなくて、マスクをするのが日常になってしまった。 「そちらはどうですか、終末化の影響は?」  僕は毎日訊いている質問を彼女に投げかけた。 「昨日隣の家の二階が無くなったくらいで、他は特に変わりないですよ」 「それは……すみません」 「いいんですよ。それより、あなたはどうでした?」  僕は少し辺りを見渡して、数拍の間を置いてから答えた。 「いえ、もう特に無くなるものもないですし」  二〇二〇年七月一日。つい三週間前、この星は病に犯された。  『世界終末病』と呼ばれるそれは、とある異星人による侵略行為らしい。  日に日に世界は、地球では解明できない超科学のワープホールとやらで小刻みに抉り取られている。  削り取られた先に何があるのか、果たして先などあるのか。それは消えた人間にしかわからなかった。 「……いつ終わるんでしょうね、これ。皮肉ですよね、英知が武器のはずの人類が、全くの未知の力に為す術もないなんて」  当初こそバカ騒ぎしていた学者達も、いつの間にかまだ侵略が進んでいない南国へと総移動した。  人類は戦うことを放棄したのだ。 「全部無くなるまで、続くんですかね」  彼女からの返事はなかった。  僕がこの電話ボックスを見つけたのは、終末化が始まって一週間が経った頃、空間の抉れの跡地でのことだった。底抜けに深い大きな穴のすぐ横に、この四角い箱は立っていた。  ちょうどその前日、家ごと家族が消滅したばかりの僕は、何を思ったのか、その電話ボックスに投げ捨てられていたメモに書いてあった電話番号へと電話をかけた。 「もしもし?」  まさに虚をつかれた、といった声だった。 「少しの間だけ、僕と話してくれませんか」  僕が見知らぬ女性にこんなことを頼むだなんて、きっとまともな思考回路ではなかったのだと思う。 「……はい」  彼女はその優しい声で、あっさりと僕の要求を呑んだ。 「その代わりと言ってはなんですが、良ければ毎日、電話をかけてくれませんか?」  予想外の文章を添えて。  それから僕達は、毎日きっかり朝の九時に電話をするようになった。  彼女は典型的な聞き上手だ。僕のまとまりの悪い話にさえ、彼女がうつ相槌は子気味良い。  毎日の電話は、日々廃れていくだけのこの世界で、僕の生きる理由になっていた。  僕は顔も知らない、声だけの彼女に惹かれ始めていた。 『聴……か。今……ま……合いま……早……』  まただ。  彼女と電話をしていると、時たま電話の向こうから砂混じりの音声が聴こえる時がある。ぶつ切りで内容まではわからなかったが、恐らく、まだ終末化の影響の薄い地域への避難誘導だろう。 「また聴こえる。こんな時でも放送してる局があるんですね」 「本当、頭が上がりません。でも、なんて言ってるかさっぱり」  彼女はそう言って笑った。 「そういえば、昨日はご飯食べられました?」  僕は一瞬躊躇ってから答えた。 「いや。でも、食べなくても全然大丈夫なんですよ。本当に」 「……」  彼女が無言になった時はほぼ間違いなく、機嫌を損ねているサインだ。 「今日はちゃんと食べます」  このまま時間を浪費してしまうのが怖くて、僕は彼女が求めているであろう台詞を言った。 「嘘だったら知りませんから」 「はい」  僕はこうなった彼女に勝てないということも、この数日間で学習していた。 「……あ、もうこんな時間だ」 「もう一時間経ったんですね」  僕と彼女の電話はいつも一時間で終わる。彼女はどうやら忙しいらしく、僕との電話が終わったら一日家にいないらしい。  はたして彼女が僕と話していない時間に何をしているのか。幾回かそういった話にはなったが、その度に僕は何だか恐ろしくなって、詳しく言及出来ないでいた。 「あの、もし用事が終わって時間が空いたら、今日は夜にもお話しませんか?」  僕は初めての提案をした。特別な理由はない。僕はただ、彼女ともっと話す時間が欲しかった。 「ごめんなさい。用事が終わる頃にはもう話せないんです」  もちろん彼女には彼女の生活があるわけで、別に彼女がそう言ったことに対して嫌な気持ちにはならなかった。 「私も本当は、もっと沢山お話したいです。あなたと話してる時間が、一番落ち着きますから」  彼女がそんなふうに付け加えた事に、僕は激しく動揺してしまった。思わず受話器を離してしまい、螺旋状のコードが地面スレスレの所まで伸びきった。  胸が張り裂けそうな思いとは、こういった嬉しい悲鳴のことをいうのだろうか。 「僕も、この時間が大好きです」  焦って受話器を持ち直し、それだけ言ってから電話を切った。  辺り一面の静寂から、絶妙に噛み合わないことを言ってしまったことへの羞恥心が湧いてきた。と同時に、それ以上に耐え難い睡魔が襲ってくる。  たまらず電話ボックスの中で座り込んだ僕は、そのまま膝を抱えて顔を伏せた。  最近、目を閉じると数瞬の内に眠りについてしまう。そして毎日、僕は同じ夢を見るのだ。  身の覚えのない部屋で、窓から外を覗く。  ゆっくりと流れる雲を見ていると、時たま誰かが僕に語りかける。僕はそれに答えようとするが、なんとも言えない倦怠感にそれを遮られ、また窓の外ばかりを見て過ごす。  何時間もそうやって、日が落ちるまで外を眺めた後、夢の中の僕は横になって眠りにつくのだ。  現実の僕の目が覚めると、いつも決まって朝の九時ぴったりだった。  僕は両手で顔を何度か擦ってから、彼女に電話をかけるために受話器を手に取った。  人差し指がダイアルを四周半回した辺りで、予想外の出来事が起こった。 「はい、僕です」 「……私です」  彼女の方から電話がかかってきたのだ。僕がその理由を聞く前に、向こうが言葉を続けた。 「すみません。今日はあなたにお別れを言う為に電話をかけました。もう時間がありません、一言だけ、あなたに言いたくて」  僕は彼女の言葉の意味がてんで理解できなかった。彼女が何に迫られているのか、何の見当もつかなかった。 「時間がない?」  僕がそう聞き返すと、彼女は少し言い淀んでから、僕の問いかけに返答をした。 「……終末化です」  言葉を失った。彼女が僕より先に終末化の被害に遭うなんて、想像すらしていなかったのだ。 「終末化って、あれは突発的なものなんじゃないんですか? 来るのが分かってるのなら、今すぐそこから離れればなんとかなるんじゃ……」 「今度の終末化からは誰も逃げられません。既に昨日の夜、人類の九割はこの星から消えてしまいました」  僕は彼女の発言を受けて、焦って電話ボックスの外に目をやった。 「……え?」  何故、今まで気が付かなかったのだろう。  周囲には、昨日まであったはずの空き家は愚か、目に映る範囲、この電話ボックスの半径一メートル外は全てクレーターのような大きな穴と化していた。  まるで、僕のいる電話ボックスだけが意図的に終末化から取り残されているようだった。こんな現象、聞いたことがない。  ただ、僕に今の状況を客観視できるほどの冷静さはなかった。 「どうなってるんですか。昨日までまだこの辺りはマシな方だったのに……」 「仕方ないですよ。そろそろ、覚める頃らしいですから」 『先生、覚醒してきています』 『信じられない。これは間違いなく、彼女の懸命な声掛けのおかげだよ』  いつものラジオが、今日ははっきりと聞き取れた。 「すみません、本当に何を言ってるのか僕には……」 「お願いがあるんです」  動揺する僕に、彼女は毅然とした態度で言った。 「また、私とお話してください」  彼女が言い終わるのとほぼ同時に、電話が途切れた。急いで掛け直したが、もう電話からは呼出音すらしなかった。  彼女はどこに連れて行かれたのだろう。転移先は人間が生きていける環境なのだろうか。今まで深く考えもしなかった事が、今になって僕の脳内を埋め尽くした。  必死になって脳を働かせた反動か、僕は再び強烈な睡魔に襲われた。受話器を握っていた手から力が抜けていき、足元がぼやけて見える。  このまま死んだらその先で、彼女の声を聴けるのだろうか。  暗転する視界の中で、僕はそんなどうしようもないことを考えていた。  目が覚めると、そこは見覚えのある真っ白な部屋だった。 「おかえりなさい。レムウイルスから生還したのはあなたが初めてです」  僕の横には、穏やかな表情の男性が立っていた。格好から察するに、彼は医師で、僕が寝ているのは病院のベッドの上らしい。 「一体、何がどうなっているんですか」  僕の問いかけに、医師はゆっくりと頷いた。 「混乱なさるのも分かります。ですがすみません、あなたを待っている方がいらっしゃいます。どうぞこちらに」  医師はそう言うと、僕を連れて病院の廊下を歩き出した。 「僕を待っている?」  全く、意味がわからなかった。終末化は、異星人による侵略行為ではなかったのか。  病室の窓から見える景色は、夢に出てくる青空と一致していた。 「これは夢ですか?」 「いいえ、現実ですよ」  医師は一言そう言うと、ある病室の前で立ち止まり、静かにドアを開けた。  僕は息を呑んだ。  風で膨らんだカーテンと共に目に入ったのは、眠っている女性の姿だった。 「この方はあなたの恋人です。ウイルスの影響で覚えていないかも知れませんが、この方があなたを夢の中から助け出したのですよ」  医師の言葉は、耳に入ってこなかった。  初めて会うのに、どこか懐かしい彼女の耳元で、僕は無意識のうちに語りかけていた。 「もしもし、僕です」
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