湖の女神と詩人

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湖の女神と詩人

 美しい湖があった。  湖面は静かに青空を映し、清い水に葦が茂り、泳ぐ魚は肥っていた。  湖畔に人がやってきた。  人は水を汲み、葦を刈り、魚を捕り暮らそうとした。  だが岸に杭を打てば、湖は荒れた。  嵐が吹き、船は覆り、礎は流され、全ては失われた。  立ちつくす人々に声が届いた。 「私はカサリオティス。私は湖水であり、湖岸の葦であり、湖底の魚である。私でない者が私に踏み入ることは許さん」  一人が跪き言った。彼女は詩人であった。 「湖たるカサリオティス女神様。我ら、貴女を汚すつもりはありませぬ。ただ、尽きぬ恵みをほんの少しお分けください」  カサリオティスは答えた。 「ならば私を讃えよ。日が沈めば湖水に星が浮かぶ。私を飾る星全てを讃えよ、さすれば恩恵を分け与えよう」  詩人は天文学者を訪ね、全天の星図を買い求めた。  毎夜詩人は湖畔に立った。  一夜目、水星を讃えた。  二夜目、金星を讃えた。  三夜目、火星を讃えた。  だが歌えば天は曇り、嵐が吹いた。  一週間経った。  惑星を終え、詩人は名高い星を詠み始めた。  天狼星(シリウス)の歌、南極老人星(カノープス)の歌、真珠星(スピカ)の歌。  どの夜も嵐であった。激しい風雨の中、詩人はリラを弾き歌った。  一月経った。  詩人は名もなき星を詠み始めた。  だが星々はあまりに多く、詩人の言葉は次第に尽きていった。  十年経った。  星図の最後の星の歌を、詩人は捧げようとしていた。  だが詩人は知っていた。  天に、星図にない星があまたあること。  人の生涯で詠み尽くせる数ではないこと。  詩人は湖畔に跪いた。 「女神様。私に、天の星々を詠みつくすことはできません。ですが――」  詩人は懐から水晶の欠片を取り出した。  水晶の輝きを湖水に映す。 「星になることはできます。貴女を照らす小さな光として、ここで歌い続けることはできます」  風は、吹かない。 「我らを星となし、子々孫々に至るまで貴方さまを讃えさせてください」  湖面は、鏡のように凪いでいた。  詩人は、葦の間に身を投げ出した。 (ねえ、聞いているかな。十年前の私)  十年間共に在ったリラを、詩人は抱いた。 (こんなに長くなるとは思わなかったけど。私の声は、確かに女神様へ届いたよ)  湖畔には街ができた。  エンカステと名付けられた街には、十年に一度詩人たちが集う。湖の恵みを讃え、女神に感謝の歌を捧げる。  そして十年が十度過ぎるたび、女神はひそかに人の身になり、三日の間だけ街で遊ぶという。女神を讃える人の声を愉しみながら。  だが、それはまた別の物語。
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