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slope1『小さな不安』
登録番号は一番。相手の名前が「あ行」から始まるということもあるが、土屋蓮は意図的にそうしていた。一番よく掛ける相手だということと――出来れば相手の、遠藤風吹にとっての一番になりたいという、そんな思いからだった。
使い慣れたスマホを操作して蓮は風吹に電話を掛ける。耳元でコール音が響いた。
蓮は風吹によく電話をするが、風吹から蓮に掛かってくることは滅多にない。用もないのに相手と連絡を取ったりするような性格ではないし、自分との関係に戸惑っているのも解っていた。親友といいながらも、キスをするような不思議な関係。多分、自分たちは友達と恋人との境界線の上に立っているんだろう。崩れそうなバランスを必死で抑えているから、どっちにも転がることが出来ない、そんな感じがしていた。
コール音が途切れた。聞きなれた声が聞こえる。暖色のイメージがする柔らかな声なのに、話す言葉は少しぶっきらぼうなのが蓮は好きだった。
「風吹、講義終わったんだけど夕飯一緒しない?」
『ああ……いいけど』
「じゃあ、これから風吹ん家に行くよ」
『いや、迎えに行くよ』
「え……」
いつもなら、じゃあ待ってると言って会話が終わるのだが、今日は違った。その事実に蓮は驚いて言葉を返した。
「迎え……に?」
『ああ、学校だろ?』
「そう、だけど……」
じゃ待ってろよ、と残して風吹は電話を切った。蓮はぼんやりしながら切ボタンを押す。
こんなに能動的な風吹は久々かもしれない。今日は雪でも降るんじゃないだろうか、と思って空を見上げると、初夏の太陽が蓮の瞳を射るように降り注いでいた。そういえば予報も一日晴れだった気がする。
「何も起こらなきゃいいけど……」
蓮はぽつりと呟いてから校名の掲げられた校門前にしゃがみ込んだ。
風吹が現れたのは電話を切ってから十五分ほどしてからだった。
「家に居たわけじゃなかったの?」
風吹の借りているアパートは大学から歩いても十五分ほどの場所にある。バイクを足にしている風吹なら五分あれば辿り着くはずだった。
「ああ、ちょっと出てた」
シートの下から蓮のためのヘルメットを取り出して手渡しながら風吹が答える。
「買い物?」
「まあな。何食べる?」
これ以上の追求を避けるように風吹は話題を切り替えた。蓮はそれに少し不満を持ちながら、何にしようか、と問い返した。
風吹の二十四時間を知りたいとは思わない。極パーソナルな部分というのは誰にでもあるものだし、その部分はたとえ恋人になったとしても踏み込んでいい場所とは思えない。
ただやっぱり意図的に話題を変えられると余計に気になるというものである。どこに居たのかくらい教えてくれてもいいじゃないか、というのが蓮の本音である。
「この間学校の近くに何かオープンしてなかった?」
「ああ、カジュアルフレンチとかってヤツ?」
「行ってみるか? 近いし」
蓮は鞄を肩から斜めに掛け直してから首を傾げた。つい先日友人の白谷紅音から「美味しかったけど高かった」という感想を聞いているのだ。それを伝えると、学生である風吹も少し渋い顔をしたが、いいよ、と頷いた。
「いいよって……」
「二人で二万も掛からないだろ、多分」
大学の近くにオープンするくらいだから、ディナーでも五千円といったところであろうことは想像がつく。けれど学生にとっての五千円は結構貴重である。蓮のように実家に居るなら別だが、風吹は一人暮らし、特にバイトもしていない。しかも、仕送りが入る直前なんかはカップ麺生活に入るほどである。その風吹が気前のいいことを口にしている。
「でも、俺も今月余裕ないし、ラーメンとかでいいよ」
「奢るよ、今日は。臨時収入あったから」
風吹は笑ってから体を少しだけ前に移動させた。蓮の座るスペースを作ってくれたのだ。
蓮はするり、と風吹の後ろへ跨る。
「じゃ、行こうか」
「うん……」
いつもと違う感覚に蓮は戸惑い気味に頷いた。本当に嫌な予感がしてきて、素直に喜べない自分がいた。
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