10年の鯉

1/1

21人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ
「来た……っ!」  物凄い勢いで釣り糸がリールから引き出される。  僕は慌てて竿を握りしめ、態勢を立て直した。  ギリリ……!  カーボンの穂先が鋭く絞られる。  リールを巻き取ろうにも、糸は出ていく一方だ。  ……このズッシリとした手応え。もしかして《アイツ》か?  池の奥へ奥へと逃げる、独特の『引き込み』。  敵が疲れるまで、じっくりと待つ。寝ていた竿の根本がジワジワと起きてくる。  少しづつ少しづつ、リールのハンドルが回せるようになってくる。  やがて。  その薄茶色を輝かせた立派な魚体が水面に上がって来た。  ……やはり、お前だったか。  そうだな。『ここ』はお前の決まった通り道なんだよ。101僕だけが仕掛けを落とす、特別なポイント。  ついに(そいつ)がタモ網に収まる。  ……立派な魚体。鱗の剥げ具合に、見覚えがある。  10年に1度だけ会いに来る、特別な相手(こい)。  お前に最初に出逢ったのは、僕が10歳の時だったっけ。オヤジに連れてきてもらって最初に釣った鯉。思わぬ大物に、大喜びしたっけ。  20歳の時たまたまここに来て、お前を釣り上げたんだ。すぐに分かったよ。それが『お前』だって。凄く奇妙で、変な縁を感じたよ。  30の時は、お前に結婚を報告したんだっけ。  40の時は、昇進と転勤を教えたよ。  50の時は、地元に戻ってきたのと、娘が結婚した寂しさをお前に愚痴ったよな。  60になって、家族以外に定年を伝えたのも、お前が一番だった。  ……今年は。  すまんな、どうやら『次の10年後』はここに来れないかも知れない。何か割りと重い病気で、手術しないといけないんだってさ。  なぁ、鯉は100年生きるってか? 世界記録は200年を超えた例もあると聞いたよ。はは……とても敵わないな。 「……。」  区切りが着いた気分。  タモ網で口をパクパクしている(そいつ)をじっと眺め、何も言わずに網を水中に沈める。    (そいつ)は何事も無かったかのように、池の奥へと帰って行った。  僕は竿を畳み、釣座を片付けに掛かった。  すっ……と立ち上がり、空の青を反射した水面を見つめる。  と、その時。  バシャリ……!  池の中央で、1匹の大きな鯉が跳ねた。そう、今まで竿に掛かっていた『アイツ』だ。それはまるで『また会おう』と言っているかのようで……。    思わず、皺だらけになった目元から涙が溢れる。 「……ああ、そうだな。戻ってくるよ、必ず。だから、お前も元気にしてろよ。また会おう! 10年後だ!」  僕は軽く手を振って、池を後にした。  完
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!

21人が本棚に入れています
本棚に追加