10年後の黄身

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 時間をかけるほど美味しくなる食べ物は、世の中にごまんと存在する。  例えばワイン。ブドウの果汁を発酵させて作るかの飲み物は、数年どころか10年20年熟成させたものが重宝されている。  あるいは人間。生まれたばかりの赤子よりも、20年30年と歳を重ねた人の方が、恋人として食べてしまうには適切であるとされる。  卵の場合はどうであろうか。  本日未明。私は冷蔵庫の奥底から、賞味期限切れの卵を発見した。  ただの賞味期限切れではない。ラベルを見れば、そこには掠れた文字で2010年と書かれている。  ちなみに今は2020年だ。  未知との遭遇である。 「おお神よ! なにゆえ私は10年間も、この卵の存在を忘れていたのか!」  己の不甲斐なさにむせび泣き、両手を掲げて叫んでみるも、天から答えが返ってくることはない。  これまでにも何度か、存在を忘れていた食材に出会ったことはある。  納豆についていたタレとか。  少しだけ余ってるキャベツとか。  微妙に残ったドレッシングとか。  しかしそれらは賞味期限を過ぎていると言っても、たかだか1年前とか2年前とかの話である。唾棄すべき2桁の大台に乗ったのは、今回が初めてであった。  私は悩んだ。このパンドラの箱をいかにして処理すべきか。  悩んだ末に、取り敢えず割ってみることにした。 「猫をも殺す好奇心、貴様に我が命が奪えるかな?」  卵を片手に、万一に備えマスクも着けて。流し台の角でヒビを入れた後、私はパカリと殻を開いた。 「アウチ!」  そしてすぐに後悔した。  澱んだ黄色い液体と共に、むせかえるような悪臭が室内に充満する。地獄に住まう悪鬼羅刹を、現世に解き放ってしまったかのようだった。  私は自分の迂闊さを嘆いた。パンドラの箱は、やはり開いてはならなかったのだ。  バカ。能無し。考え無し。思い付く限りの罵倒を用いて、10秒前の自分をひどく罵った。    ……いや、待て。    悪いのはさっきの私ではない。  賞味期限が切れる前に食べなかった、過去の自分に責任がある筈だ。あいつがきちんとしていれば、私がこうして地獄を見ることはなかったのだ。  殻をゴミ袋へ投げ捨てる。開いた口から大きなため息が漏れた。  10年前の卵へ。  10年放置したキミの黄身は、酷い匂いです。 そして10年前の私へ。  冷蔵庫ちゃんと整理しろ。
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