茜色と世界へ

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 最初から色の鮮やかな世界を眺めるより、無機質な硝子を色付けた方が有意義だ。  今日が今日らしく、自分が自分らしく生きられるように。  文字と言葉の波の中で、そっと呼吸を一つ。それがいいのかもしれない、それでいいのかもしれない。どうせ世界は、いつも通りだから。 「私、私であっていいのかな」  階段の踊り場と、茜色に染まった世界。そっとノートを抱いて、私は頬を緩める。誰も聞いていない声はあけっぱなしの窓から空へと溶けていき、まるで最初からなかったようだ。  私もあの声のようになれたら、どれだけ幸せだろうか。 「なにやってんの、帰るよ」 「置いてくぞ」  どこからか聞こえてきたそれは紛れもなく私に向けてで、答えるまでやめないと言いたげに私の事を呼んでいた。やめてよ、ちょっと恥ずかしい。 「今行く」  夢のない教科書でいっぱいのリュックにノートを突っ込みながら、小さく答える。転ばないように階段を降りていくと、待ってましたと言わんばかりに私の事を待つ面々がいた。 「今日は何するよ」 「かくれんぼしようぜ」 「誰の家だと思ってんだよ」  普段通り、変わらない世界。  そんな色付いた空間を横目に、私は肩を落とす。 「今日もだめだったなぁ」 「どうした?」 「んん、なんでもない」  ただの独り言だから、本当に。  薄く笑い、スリッパを下駄箱に入れながら外に目をやる。そこにあるのは十年前の卒業生が植えた木で、立派なものだ。 「十年……」  十年後なんて、正直検討もつかない。けれども、それは案外あっという間かもしれなくて。  十年後の私へ。  十年後、今よりも世界は輝いていますか?  ***  ノートをそっと閉じて、目を瞑る。  幼稚で、恥ずかしいくらいにボキャブラリーのない文字達が踊ったそれは人に見せられるものではなく。  褪せた表紙と、拙い物語。  癖字は解読が難しいほどで、我ながら情けないなと思う。 「もっといい話が書けたでしょ、よりによってなんでこんなにさぁ」  今となんら変わりない話なのさ。  耐えられずに吹き出して、ノートを棚に戻す。やめたやめた、こんなの見ていられない。 「っ……」  ふと、ある事を思い出す。  見るに堪えない物語の末尾、そこには書いた日付――十年前の今日が記されていて。 「……十年なんて、本当にあっという間だって」  誰に言うでもなく、誰に問いかけるでもなく。  いつかの世界を生きる、生き苦しい彼女へ贈る言葉。   十年前の私へ。  少なくともあんたは、あそこで死ななくて幸せだよ。
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