当然の末路

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 午後十時を伝える時報がカーラジオから流れ、鼻歌交じりに少しアクセルを踏み込んだ。  車体にぶつかる雨音は、昼から続いてますます激しさを増しており、天気予報では、今夜いっぱいは続く見通しということだった。  隣の車線を走っていた軽自動車をすさまじい速度で追い抜く。すれ違いざまのクラクションを聞き流しながら、すぐ横を通り過ぎた速度制限の標識を、二階堂は雨と暗闇を笠に気付かなかった振りをする。  二階堂は個人営業のタクシードライバーだった。  仕事を始めて二年目も半ばに入り、仕事の楽しさや、自分に合った息抜きの仕方が完全に身についたところで、今走っている並木道も、その中の一つであった。  トラックの行き来を想定して作られたのか幅員が広く、そのくせ駅にも住宅街にも向かうには遠回りな道のため、この時間はとくに車通りが少ない。だから二階堂はいつもこの時間にはあえてこの道を走り、時には見知らぬ車を煽るように追い抜いたり、そこでは普段持っているわずかな正義感や罪悪感を無視することにしていた。  今の冬場は、どの木も葉が枯れ落ちていて、曲がり角の向こうが見通しやすい。雨音の心地よさも相俟って、二階堂は鼻歌に口笛も交えながら、普段よりもさらに深く、アクセルを踏み込んだ。  夜の、大雨の中での加速は、まるで二階堂を何かの映画の登場人物に当てはめたかのようで、気分をさらに高揚させた。  人影があることに気付いた。  まばらにある道路照明灯の中の一つ。その下で、周囲の闇に今にも溶け込みそうになっているそれは、注意深く見なければまず気付かなかっただろう。  だらりと外灯の支柱に寄りかかりながら、影はゆっくりと二階堂へ向けて手を振っている。  この場所で人を乗せるのは初めてのことだった。珍しいこともあるものだと思いつつ、スピードを落とし、客の方へ車を寄せる。  だが近づくにつれて、二階堂は人影に気付いたことを後悔し始めた。  外灯に寄りかかっている客は、黒いコートに身を包んでいた。深くかぶった目出し帽に顔も隠れており、外見からは体格の良さくらいしか情報が得られない。  おまけにいつからそこにいたのか、黒コートはずぶぬれになっており、雨に負けてない量の滴を、コートの端や帽子のつばから、地面にぽたぽたと落としていた。  乗車拒否してしまおうか、とも考えたが、それより早く車のドアを急かすように掴まれてしまい、渋々ドアを開けた。  滑り込む、というより這いつくばるように入ってきた客は、足が悪いのか、全身を蛇のようにくねらせ、這うようにして座席右奥に移動してきて、そのことが更に二階堂を嫌な気持ちにさせた。雨に長く濡れたもの特有の匂いに、動物的な刺激臭が混ざっているのも、不愉快さに拍車をかけた。 「どこまででしょう?」  しばらくの間があり、「駅まで」と返事があり(そしてここでようやく、二階堂は相手が男であることに気付いた)、二階堂はウィンカーを照らして、車を走らせ始めたのだった。  道路に点在する水たまりを弾きながら、タクシーは走っていく。雨音とエンジン音で騒々しい車外と比べて、中は重い沈黙に包まれていた。  駅は丁度二階堂が走ってきた方向にある。そのため向かうには、一度並木道を突き辺りまで行き、そこからUターンしてまた同じ道を戻る必要があった。 「……お客さん? 大丈夫ですか、具合悪そうですけど」  雨の音とタイヤの擦れる音に、男の荒い息遣いが混ざる。何かを耐えているようなその呼吸音と、吐く前兆のようなえずく声は、二階堂をさらに不安にさせた。 「……いや、たいしたことない。悪いが急いでくれないか」 「わ、わかりました。吐きそうだったら言ってくださいね」  この状況でさらに掃除の手間が増えるのは御免だった。アクセルを踏み込み、景色を加速させる。  いつの間にかカーラジオが消えていた。スイッチを何度か押してみるが、うんともすんとも言わない。壊れたのだろうか、にぎやかな音が恋しいこんな時に。 沈黙に耐え切れず、二階堂の口がまた開く。 「お客さんは、この辺りにお住まいですか?」 「あんな場所で傘もささずに何をなさっていたんです?」 「すごい雨ですよね、これ今夜はずっと続くそうですよ」  なるべく明るい声色で語り掛けてみたが、何を言っても男は「あぁ……」とから返事を返すばかりで、まるで会話にならなかった。  だが、 「……ほ、本当によく降りますよね。こんなの去年以来かな」 「……去年?」  苦し紛れな言葉に、男は興味を示した風を見せた。  奇妙な反応な気はしたが、長い道のりを不気味な沈黙で済ませるよりましだと、二階堂の口はさらに軽くなった。 「あれ、ご存知ありません? このくらいの雨が降ったんですよ、丁度去年の今くらいの時期に」 「いや……知らないな。勘違いじゃないのか? 俺もこの辺りは結構長く住んでいるが、こんな雨に打たれた覚えは……」 「いえいえ、よく覚えていますよ。私がタクシードライバーになって最初の冬のことでしたから。とても印象に残っています」  二階堂の予想以上に、男は去年の話に食いついてきた。不思議に思いつつも、流れを断ち切るまいと、そのころの様子を思い浮かべる。 「当時はこの仕事を始めて半年経ったくらいでしたね。この道を見つけたのは、その更に一カ月くらい前だったかと……。お客さん、私の車が来るところ見ていましたよね? ここだけの話……私、この道を毎日、あれくらいのスピードで走るのが趣味なんですよ。ストレス解消、というか……。今くらいの夜中にしかやりませんけどね」 「……あぁ、遠くから明かりが迫ってくるから、何事かと思ったよ」  男の声が少し遠く聞こえる。その時の様子を思い出しているのだろうか。 「その時も、同じことをしていたんですよ。駅からこっち側の道をひた走って。他のバイクや車を追い抜きながら、雨の音の中でスピードを出すのが、なんだかすごくテンションが上がっちゃったんですよね。普段よりも早く……それこそ今日のさっきまでと同じくらいのスピードだったと思いますよ」  思えば、あの時の爽快さが、ここをストレス解消に使うようになったきっかけであったように思える。話していて気分がよくなり、少しアクセルをまた踏み込んだ。 「それ、去年だって話だが……具体的に、いつぐらいだ?」 「え? あぁ……、十一月の……確か金曜だったかと」  流石に詳しいところまではおぼろげだが、その答えで納得したのか、男は深く息を吐いた。  少しの沈黙が挟まり、外の雨音が妙に響く。 「……なぁ、もっと早く走れないか?」 「え? あ、はい、わかりました」  雨音にかき消えそうな小さな声に一瞬聞き逃しかけたが、言われた通りにアクセルを踏む。二人の身体を座席に押し付けるようにして、タクシーは雨の中をさらに勢いづいて走っていく。  だがメーターが80㎞を超えても、男はなおも不満げな息を吐いた。 「それじゃあ駄目だ、もっと急いでくれ……もっと、もっとだ」 「お客さん、ちょっとこれ以上は……」 「何をぬかす。普段はもっと速く走っているんだろう。……それと同じくらいでいいって言っているんだ……っ」  二階堂が息を呑んだのは、男の声が先ほどまでと違い、強い敵意を向けたものになっていたからだけではない。  後ろから二階堂の座席にしがみつくように迫ってきた男の手に、赤い液体の滴る金属片が掴まれており、それが二階堂の首筋にピタリとあてがわれていたからだった。 「もっと早く走れ。こんなものじゃないだろう」 「な、なにを」 「アクセルを踏めと言ってるんだ!」  呻くような低い恫喝と、金属片の切っ先が二階堂の首にわずかに食い込むと、ひぃ、と悲鳴をあげながら、言われるがままにアクセルを踏み込んだ。  男が勢いに押されて後部座席に押し付けられるのを期待したが、両手を二階堂の首と座席に回してしっかりと掴みかかっており、その距離が離れることはなかった。  雨の当たる音が激しくなる。  十数メートル間隔で設置されているはずの外灯が、まるで絶え間なく置かれているかの様に、タクシーと、その中にいる二人の姿をオレンジ色の明かりでチラチラと照らし続ける。  二階堂達を乗せた車は、水浸しの並木道をスリップも考えずに走っていく。車内は重い沈黙に包まれている。当初と違うのは、そこに二階堂のひきつったような息遣いが混ざり、更に雰囲気を張り詰めたものへと変えていっていたことだ。 「全く、驚いたよ。偶然って言うのはあるものだ。いや、この場合は必然なのか……っ」  男が低い声で語り出す。ポタリ、ポタリと、水の滴る音が車の中に響いている。二階堂の視線は、目まぐるしく過ぎ去っていく外灯と、何が迫ってくるか分からない真っ暗な道先にくぎ付けになっているが、それでも男の言葉には意識を傾けざるを得なかった。 「見覚えのある車だとは思っていたんだ。けれど流石に車種と、ここに来たというだけで決めつけるのはと思っていた。っ、ところがどうだ、様子を伺っていたら、お前の方からペラペラと話し始めたじゃないか。」  高揚しているのだろうか。男の言葉には嬉しさと怒り、その両方が感じ取れた。二階堂が震えながら男の方を向こうとすると、金属片が首の皮に食い込む。 「前を見て走れ。今度こそ事故っても知らないぞ」 「っ……こ、今度こそ……? いったい何の……」 「呆れたやつだな、まだ気づかないか。それともなんだ、まさか自覚すらしてないのか?」  溜息と共に、男の声が耳元に迫る。間近に迫る体臭と、金属片から漂う血の匂いが、二階堂の鼻を突いた。 「今お前が言った日だよ。去年の十一月の金曜日。こんな雨の日に、猛スピードで走っていたそうだな。その時、お前は何をした? 思い出してみろ」 「お、思い出せって……」  痛みに急かされるように、脳裏に必死に思い浮かべる。  去年のその日。いつものようにストレス解消の快走をした日。  否、いつものように、ではない。その日は今までにない大雨だった。それは二階堂の心を昂らせ、普段よりもさらにアクセルを深く踏ませたのだ。丁度今日の様に。 「その日道を走っていたのはお前だけだったか? ……っ、違うだろう。他にもいたはずだ」  そう、外灯と車のライトが闇に浮かぶ空間の中、ポッと、一つの明かりが、側道に一瞬見えていた。ほんの一瞬、すれ違いざまにちらりと見えたあれは、オートバイだっただろうか。 「なぁ、わかるか? 隣の車線なんてものじゃない。暗闇の中から、140キロ超えの車がほんの数センチ隣を突っ切ってきたときの恐怖が、あんたにわかるか? 雨の中でそんな鉄の塊に追い立てられたら、誰だって手元が狂うだろう。なぁ」  二階堂は返事をしない。できなかった。 「っ……バイクもろとも見事に横転したよ。全身が叩きつけられて、雨に滑るようにして近くの外灯にぶつかったんだ。バイクのパーツが突き刺さって内臓が潰れ、口からは血が溢れる。脚は見事に折れたし、バイクはめちゃめちゃ。全く、とんでもない災難だ。おまけに一瞬のことで、ナンバーも碌に見えやしない。かろうじて見えたのは車種くらいだ」  この男のえずきは、一体何を吐くことを耐えているのだろうか。 「それからずっとこの場所で思っていたんだ……。……っ、もしまたあの車に会ったなら、その時は仕返しをしてやろうと」  近くに寄られて分かった。この匂いは体臭などではない。血の匂いを漂わせているのは、凶器だけではなく、この男自身からも、強い鉄さびの匂いがした。 「運転手の身体をめちゃめちゃに引き裂いて、今俺の身体が受けている痛みと同じ苦しみを味わわせてやろうと誓ったんだ」  車の中にぽたぽたと垂れ続けている水音は、本当にコートから垂れる雨水の音だろうか。 男の不自然に曲がったひざ元から、ずっと垂れているのではないか。 「そして今ようやく、その時が来たってわけだ……!」 「出鱈目だ……!」  カチカチと歯を鳴らしながら放った二階堂の言葉は、男の視線をスッと鋭くさせた。 「一年前の事故? そんなもの、私は知らない! 言っただろう、私は毎晩この道を通っていたと! そんな事故が起きたなら、警察や検問の一つや二つあるはずだ! だ、だけど私は一回も、そんなのに合った覚えはない!だ、第一、一年前に受けた怪我が、なんでまだ残っているんだ!」  叫んだ直後、凶器の切っ先がわずかに震えるのを感じ、恐怖に背筋が震えた。  だが男はそのまま身体を揺らすと、口にこみ上げる血だまりを呑み込むようにしながら、楽しそうに笑っていた。 「は、ははははっ……!あぁ、そうか、そうだろうとも……っ、検問なんて来るわけがない。俺とあんたがすれ違ったのはこの道であって、あの道路じゃないんだからな」  言っている意味が分からず、頭が混乱する。けどそんな混乱さえも、車が水たまりを弾く音に一瞬で意識を持っていかれれば、現実逃避もままならぬまま、ハンドルとアクセルに集中させられる。メーターは既に130を超えていた。 「っ……なぁ、あんた不思議に思わないのか? さっきからずっと同じ道だ。長くこの道を走っているなら、ここがこんなに長い道じゃないことくらいわかるだろう。こんな速度で走っていたらなおさらだ。」  言われて、ハッと気づいた。  目の前の道は見覚えはあるが、見慣れたものとは確かに違う。  遠くに見える街灯りはまるで近づく気配がなく、緩やかなカーブすら消えた並木道は、簡素な外灯と、やせ細った枯れ木がひたすら連なるばかりで、前からも後ろからも、他の車が来る気配すらない。 「……なんだ、これ……」  思わずアクセルを緩めると、凶器が首筋の肉をえぐる。悲鳴を上げ、またふみ直すが、やはり景色は変わらない。 「な、なんだこれは! 何なんだ! ここはどこなんだ!」  無限に続く並木道。その中をタクシーは、ただひたすらに走り続けていた。あれから少なくとも二十分以上は走り続けているはずなのに、チラリと見たカーステレオの時間は、一分も進んでいない。 「信じられないだろう? 俺だって信じられなかったさ。……っ、この道はな、終わりがないんだ。どうしてこんなところに来たのかずっと考えていたが、お前が来て何となくわかった。ここは、あの道を、この道と同じ環境の時に走ると迷い込む場所なんだ。それも多分、猛スピードで走っている時にな。俺もその時、同じスピードで走っていたんだよ。ほんの気まぐれだったがな。迷い込んだことに気付いて、困惑してスピードを落としたところで、お前とかち合ったってわけだ」 「な……なんだよ、それは……」 「俺が知るわけねぇだろう。けどここがどういう場所なのかはわかる。一年ずっといたからな。……本当に、終わりがないのさ。っ、道だけじゃなく、そこに迷い込んだ奴もだ。……傷が治ってないはずがない、って言ったな。っ、その通りさ。俺の身体は、一年前からずっとこのまんまなんだよ」  言葉に怒りが混ざる。男の片手が二階堂の肩を掴み、ぎりぎりと潰そうとするかのように握りしめた。 「一年ずっとだ……っ、大破した拍子に身体に突き刺さったパーツで潰れたであろう内臓も、折れた脚から垂れる血も、全身にずっと続く痛みも、どれもこれも全くなくなりゃしねぇ!しばらく動かず休もうにも、眠気も来なきゃ、止まない雨に打たれ続けて寒さで震えるばかり! それでも凍え死ぬことだってできやしない!」  怒りのままに、男は凶器を振りかぶり、二階堂の腕を切りつける。 「ひぃっ…!」 「かすっただけだ、その程度でいちいち悲鳴を上げるな……っ。携帯も使い物にならないこんな場所に、大けが追わされて放り出された俺の気持ちがわかるか? 終わらない痛みをひたすら味わわされ続けるようなことを、俺がいつしたって言うんだ!」 「た……」  男の言葉が途切れた時、二階堂は震える身体を必死に抑え、ハンドルを滑らせないようにしながら、途切れ途切れに言葉を放った。 「助け、許してください……! 私が、私が悪かったです……」 「は……っ、安心しろ、まだ殺しはしない。言っただろう、ここを出入りするには、今のタイミングで、並木道を駆け抜けなきゃならない。脚が使い物にならない俺じゃあ、アクセルを踏めないからな……。っ……お前も、こんな場所に置き去りにされたくないだろう?」 選択の自由などあるはずがない。二階堂は人形の様にカクカクと必死に首を縦に振りながら、メーターを確認する。  既に速度は160を超えている。男の言葉が確かなら、このまま走っていれば、この終わりのない並木道から抜け出せるはずだった。  だが、そのあとは?  決まっている、並木道から抜ければ、男は二階堂を殺すのだろう。一か八か抵抗しようにも、この状況ではどう頑張っても、突きつけられた凶器が二階堂の喉笛を掻っ切る方が早いことは明白だった。 「さぁ、そろそろだ……元の場所に戻れれば、電話も通じる。それを合図に、お前をこの車から突き落としてやるよ……っ」 「許して……許してくれ、私が悪かった……」  半泣きになり、目の前の変わらぬ景色を睨みつけながら、男へと懇願する。けれど男はそんなもの、と鼻で笑った。 「そんな謝罪をされても、俺の怒りは収まらない。もうすぐだ……もうすぐようやく、俺の人生が戻ってくる……。こんなバカに滅茶苦茶にされたが、それももう終わりだ……」  こみ上げるような男の笑い声。それは二階堂にとっては、死のカウントダウンに等しかった。大人げなく泣きじゃくりながら、アクセルを踏みぬく。ワイパーでも拭いきれない量の雨が目の前を歪ませる。やがて、カーステレオの止まっていた時間が、再び動き始め……。 「あ、ああぁ、あああああぁぁぁぁぁ!」  狂ったような悲鳴が響く。二階堂のものではない。二階堂を脅していた男が、突如声をあげ、凶器を取りこぼした。その切っ先は重力に従い、二階堂の太ももへ命中する。だが痛みを覚悟したのに反し、鈍痛がしただけで、そのままひざ元にポトリと落ちた。 「な、なんだ、何が起きた! 痛い、痛い痛い痛い! ッ……―――ぉぇ…!」  後部座席で、嘔吐する音が聞こえる。チラリと見た金属片は、錆びていた。 「なんだ、なんだこれは……じ、時間が、俺の時間が……!」  カーステレオの時計はどんどん進んでいく。五分、十分、十五分……まるで並木道に閉じ込められていた時間が一気に戻ってきたようだった。 「畜生……っ、ふざけるな、ふざ、けるな! ここまで……来て、こんな、があって……たまるか……! 止ま、おい……止まるんだっ……!」  ではあの男は? 後部座席で必死に叫びながら震えるあの男の身体には、どれくらいの時間が今過ぎているのだろう。怪我を治すこともできず、冷たい雨に打たれ続けた状態で過ぎた一年が、人の身体にどう影響を与えるのか、考えるまでもない事だった。後ろをバックミラー越しに見ることもできず、二階堂は必死にアクセルを踏む。  遥か彼方に灯りが見える。それは外灯ではなく、近づくことのない街灯りでもなく、検問を行っている、複数台のパトカーのランプの赤い光だった。 「――――――ぁ……――――――」  後ろからは、もう声は聞こえてこない。  猛スピードで走る二階堂の車に、パトカーから降りてきた警察が警棒を振り回す。  自分と男以外の人間の姿に気が抜ける。二階堂の手はそのまま滑るようにハンドルを手放し、  140キロの速度を保ったまま、まっすぐに無人のパトカーの中へと突っ込んでいった。
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