「あっ、髪切った?」

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「あっ、髪切った?」

アルバイト先の休憩室は、シフトの30分前には出勤をするバイトの人数に見合わず、狭い。 僕の隣に置かれた、ガタガタするパイプ椅子に優しく座った彼女。 僕の存在を見つけた途端、嬉々として話し掛けてきた。 僕は毎月4,800円もかけて美容院に通っている。 「とりあえず、生」のテンションで「とりあえず、ツーブロック」とオーダーするこの髪型に、それほどの価値があるのか、と会計時にいつも思ってしまう。 毎月の水道代やガス代、Wi-Fiの使用料と並んで、似合っているのかわからないカット代が引かれていくことに、未だ疑問符が消えることはない。 それでも、「美容院に行っている」という事実は大学生の自分にとって、ステータスの1つであった。 高校生までは床屋に通っていて、「床屋の名前の由来は、江戸時代の何かからきているんだろうなあ」とぼんやり思いながら、顔を剃ってもらっていた。 ちなみに、「床屋」は性的な意味合いが連想されることから、放送禁止用語らしい。 ただのうんちくである。 都心の美容院に通えばモテるという都市伝説を一縷も疑うことなく、茶髪に染めたりパーマをかけたり、あらゆる施術を施した。 1本1本の髪の毛を傷み尽くし、全てを犠牲にした代償に、モテる未来が待っていることを信じた。 結果、顔が変わらなければいくら髪型がカッコ良くても意味はないという、美容整形の根源のような現実だけを叩きつけられた。 しかし、彼女だけは必ず声を掛けてくれる。 黒髪短髪に戻しても、毎回、毎月、ルーティンのように、botのように。 会話の入り口に散髪があるだけで、カットしてよかったという気持ちになる。 髪を切ったあと、彼女に会う待ち遠しさで胸がいっぱいだった。話し掛けてもらえるのであれば、それだけで幸せだ。 しかし、「うん」と答える僕の声は、ぎこちなく、どこか浮かない。 美容院を訪れたのは、もう2週間も前のこと。 もはや2週間も経てば散髪前と変わらない髪型。 その髪型に向かって、嬉しそうに声を掛ける彼女。 2週間タイムラグのある「髪切った?」botに対して、あきらめず、脳内返信をする。 こいつ、おれのこと好きなんかな
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