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あとはその瓶だけだった。
生温い空気を収めるばかりのクローゼットや本棚は、長く共にあったはずなのに、すっかり他人の顔をしている。俺は俺で、それらの棚板とは初めて見えた気がしている。冷たいのはお互い様だ。どちらかといえば、酷いのは俺の方なのだろう。ろくに掃除もしなかった。ようやく片付ける気にはなったが、服はゴミ袋へ、本は床に積み紐で括って、棚の存在意義を奪い去る始末。挙句、棚そのものさえ捨てる気ときている。
混沌とした机の引き出しも空にした。成人祝いにもらったペンも、ひらがなで名前が書いてある色鉛筆、皺になった画用紙や折り紙も、全部行先はゴミ袋。もう何もいらないのだ。迷わないからすぐだった。たった一つ、一番下の引き出しの最奥から出てきた瓶を除いては。
コルクに閉ざされた瓶の中はそれ一つで、引き出し全部と同じくらい混沌としていた。石ころと硝子玉、小さな貝殻に蝉の抜け殻。
何の気もなく、化学の実験で試験管の薬液を混ぜたように瓶を振る。すると貝は欠け、抜け殻は砕けて石と硝子玉の間に積もった。
捨てた本の一冊に、「試験管の中にひよこを入れて粉砕すると、何が失われるか」という思考実験が載っていたのを思い出す。ひよこを粉砕しても、試験管の中身は変わらないらしい。形は変わるが成分は同じだから。納得がいかず、まず粉砕なんかするなよと、身も蓋もないことを呟いた記憶がある。残酷だなと思うだけで、問いの答えを深くは考えなかった。
俺はその残酷な所業をやり遂げてしまった。砕けた抜け殻。ぶつかり合い傷ついた中身。幼い頃の宝物。
今、何が失われたのだろう。何もかも失ったつもりだったのに、実はまだ何か残っていたようだ。喜怒哀楽を均していた胸の中の濃霧が、随分久しぶりに揺らいでいた。
コルク栓を抜き取る。停滞した夏のにおい。十年は前の俺がいつまでも残したいと思った物の。明日を厭わなかった子どもの頃の、輝かしかった世界の空気。
例え砕けても瓶の中身が、その成分が変わらないというのなら、どれだけ酷く変容したようでも、世界の中身も昔から同じなのだろうか。失くすのを惜しみ、瓶に入れたいと思えるものが、探せばまだあるのだろうか。
ゴミ袋の上で躊躇った結果、俺は再び瓶に栓をした。この中身を砕いたことを残酷だと思えるうちは、生きているべきだろう。
生きることが好きだった俺の破片も、この身のどこかに変わらず残っているはずだから。
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