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1-1 彼の問題、彼女の問題
「アルマース?」
ようやく、少女の瞳がこちらを向いた。それだけでばかみたいに嬉しくて、テオは張り切って説明を始めた。
「今年一番の金剛石のことをそう呼ぶんだよ。重さ、透明度、色、削り方から判定し、最高品質のものが選ばれる。最も大きく、最も透き通り、最も美しく輝く金剛石ってことだ。選ばれた品は毎年貴族の間で競りがされて、金貨百枚もの値がつく。結婚式の指輪にして贈れば、二人の間には永遠の絆が結ばれるだろうって言われてるんだ」
「永遠の絆?」
「へえー。色恋に興味ないお前でも、永遠の絆なんて聞いたらさすがに興味湧くか」
「違うわ。テオが、似合わない言葉を使ってるなぁーと思って」
「なっ」
少女の視線がまた手元へ戻る。昼時のため、ノウェン市の小さな食事処〈たんぽぽ亭〉は忙しい。テオがカウンター席からいくら話しかけようと、少女は注文をこなすために手を動かすことに集中していた。
「失礼だな。そりゃあ俺だって、信じてるわけじゃねえけど。ただ、お前くらいの歳の女はみんな、指輪やら永遠の絆やらに憧れるから、教えてやろうと――」
「ごちそうさん、ミーアちゃん! 勘定置いとくよー」
少女、ミーアは、テオとの会話をおざなりに店を出ていく客へ笑顔を向けた。
「ありがとう! また来てね!」
それから空席となった卓へ向かい、置かれた硬貨と空の皿をせっせと回収する。
テオは愛想の良さの差に不満を感じた。ほぼ毎日通っているおかげかミーアと親しく話せる仲にまでなれたが、代わりに最近は店を出る時に笑顔なしで「お粗末さまー」と返される始末だ。親しくなるのも考えものである。
「ミーア。いま大丈夫?」
店の奥からのんびりとした声がし、女性が出てきた。たんぽぽ亭のたった二人の従業員のもう一人、ミーアの母のミンロだ。重労働も多いだろう食事処の店主にしては細身で、気性も穏やかなため花屋と言われたほうが納得する女性だ。
「塩の在庫が切れていたみたいなの。悪いけど、買って来られない?」
「わかったわ」
ミーアは前掛けをすばやく外した。ワンピースの内側に硬貨袋を入れ、急ぎ足で店の正面扉から出ていく。テオは扉の向こうへ消えたミーアの背中を見た後、手元の皿の卵料理を急いで平らげた。
「ミンロさん、ごちそうさま!」
代金を卓に置くことはもちろん忘れず、テオはミーアを追って足早にたんぽぽ亭を出た。背中で「また来てねー」とミンロの声がした。
外へ出ると空は青く、初秋の太陽の光に一瞬だけ目が眩む。通りは午後の仕事始めへ向け賑わっていた。テオは行き交う人々に混じり、最も近い市場へ足を向ける。
ここノウェン市は、五万人もの人が暮らす巨大都市だ。市場がいくつもあり、馬車がすれ違えるほど広い大通りが何本も通っている。富裕層から貧困層まで幅広く住めるよう住宅区画は充実し、仕事の斡旋や起業を援助する商会も豊富だ。
通りを進んで間もなく、小柄で華奢な後ろ姿をすぐに見つけた。一本に結い上げられた麦わら色の髪は、揺れて光を透かすと金色にも見える。
「ミーア!」
テオはミーアの隣まで走った。ミーアが足を止め振り向く。
「テオ……どうしたの?」
「塩袋、結構重いだろ? 運ぶの手伝おうかと思って」
「大丈夫よ。テオだって、仕事に戻るところでしょ?」
「午後の作業に少し遅れるくらい、平気だからさ」
ミーアが片眉を上げた。淡い空色の瞳は意志が強そうで、だが大きくて可愛らしさもある。目が合うだけで心臓が逸るようになったのは、いつからだろう。
「遅れないほうが、いいんじゃない? 公爵家の庭師って、そんなに緩い仕事なの?」
「俺はまだ、見習いだからな。花や木に触らせてもらえるわけじゃないし……。俺がやってることと言えば、落ち葉や枯れ草を片づけるくらいで、だから多少遅れてもぜんぜん――」
「何言ってるのよ。それこそ遅れないでちゃんと行って、お師匠さんたちの仕事を見て覚えなきゃだめじゃない。そんなんじゃ、いつまで経っても見習いよ?」
「ああ、うん……まあ……」
「いつまでも見習いだと、くびになっちゃうんだから。テオに無職になられたら困るのよ。たんぽぽ亭の大事な収入源なのに」
今度はテオが眉を上げる番だった。
「おい。金のためか」
「定食料理代、穴銀貨一枚分、毎日きっちり落としてくれるお客さまって、貴重よ。テオはうちの上客なんだから。来なくなったら、わたし、哀しいわ」
両手を丁寧に胸の前に当て、上目遣いで小首を傾げられた。もちろん計算だ。ミーアはしたたかな少女である。無銭飲食しようとした客を大根片手に追いかけ、そのまま大根で殴り昏倒させ捕まえてしまうような少女だ。偶然その場に居合わせたテオが見ていたのだから本当の話だ。
「そこは嘘でも、俺に会えないのは寂しいから、とか言ってくれよなぁ」
ミーアが軽やかな笑い声を返す。テオも落ち込んでいるのはふりだけで、何でもないミーアとの会話が楽しいだけだった。
「優しい言葉に飢えてるなら、誕生日にでも言ってあげましょうか?」
「え? ……俺、誕生日来月だけど」
「ええっ?」
自分で言っておきながら、ミーアが目を丸くする。冗談か、もしくは誕生日が先で忘れると見込み軽く提案したようだ。
「本当に誕生日なの? 嘘じゃなくて?」
「うん。来月で十八」
「ええ……」
「楽しみにしてるよ」
テオが口の端を吊り上げると、ミーアは頬を染めた。
「言えないわよ! そんな恥ずかしいこと!」
「お前から言ったんだろ。どうせ嘘なんだし、いいじゃん」
「嘘でも言えないわよ。恥ずかしい――あっ。わたし、ここ曲がるから! じゃあね!」
ミーアは逃げるように道を曲がり、市場へ入っていった。公爵邸への道は直進だ。テオはミーアを狼狽させたことに満足しながら、まっすぐの道を進んだ。重いだろう塩袋を持ってあげたい気持ちは強かったが、からかってしまった手前、ミーアは意地でもテオには持たせまい。
公爵邸に到着したテオは、裏口から中へ入った。邸の主であるバックス公爵が、ノウェン市の領主である。国王から領地を賜ったのは遥か昔、八百年以上も前だと伝えられ、以後代々バックス公爵家がノウェン市を治めてきた。長い年月をかけて発展を遂げたノウェン市は、いまは商業に力は注いでおり、国内で最も商会が多い都市として名を馳せている。
テオは邸まで続く緑の垣根の合間を隠れるようにして進んだ。垣根は庭師の手入れが行き届いており、小枝一本飛び出ていない。なぜ隠れるように進んでいるのかと言えば、街へ行っていたことが丸わかりのいまの服装を誰にも見られたくないからだ。
「セオドア坊ちゃま」
「うおっ」
だがいきなりそばから声をかけられ、テオは心臓が口から飛び出そうになった。振り向くと、白髪混じりの長身の執事が立っている。
「あ……っと。ただいま、ロッソ。すっごい驚いた。ぜんっぜん気づかなかった」
「お帰りをお待ちしておりました」
「え、なんで?」
「坊ちゃまにお客さまがお見えでございます」
「客?」
今日は来客の予定はなかったはずだ。誰かと聞く前にロッソは続ける。
「坊ちゃまのお部屋でお待ちでございます」
「……ああ、リチャードか」
普通の客人がテオの自室に通されることはない。連絡なしだというのも納得した。
「わかった。すぐ部屋に戻るよ」
「もう一件お話がございます。ダリオンさまからの言伝です。『午後のうちに書斎に来るように』、と」
「父さん、帰って来たんだ」
「はい。先ほどお戻りになられました」
「そっか。わかった」
ロッソは一礼をして去っていった。現バックス公爵のダリオンは、半月ほど市外へ出かけていた。簡単な用件であれば夕食の席で事足りる。わざわざ書斎に呼び出すことは珍しく、テオは何だろうと考えながら、まずは自室へ向かった。
部屋へ入ると、派手な緋色の髪の青年が椅子でくつろいでいた。青年は優雅に振り向くと、その端正な顔に完璧な笑顔を浮かべる。
「やあ。おかえり」
「久しぶりだな、リチャード。これからまた国外か?」
「まあね。いつも通り、一泊させてもらうよ」
リチャードはテオのいとこだ。歳が同じなせいか友人のように仲が良い。普段王都で暮らしているリチャードだが、国外に出かける際、国境沿いにあるノウェン市に寄り、公爵邸を宿代わりにするのが習慣だった。
「それにしてもテオ、その恰好……。街に行って来たのかい?」
『テオ』と言うのは、十年以上前に亡くなった母が使っていた愛称だ。家族やリチャードなどごく一部の近しい者たちは、母が呼んでいた愛称を真似て、本名の『セオドア』ではなく『テオ』と呼んでくる。
「あー、うん……まあ」
テオは衣装戸棚から普段着を取り出し着替え始めた。脱いだ粗布の衣服は衣装戸棚に丁寧に戻すが、着古し、くたびれているそれは、隣に並ぶほかの衣服からは明らかに浮いている。それでもその粗布の服は、ミーアに会うために不可欠な貴重な衣服だった。
着替え終わった時、部屋の扉を叩く音がした。返事をすると、頭の左右にお団子髪を結った少女が入ってきた。
「テオ兄さま。いま、いい?」
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