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ミーアはすぐに表情を険しくした。青年は近くの椅子に座ると、拭いたばかりの卓の上に靴を乗せながら言う。
「酒くれよ、ミーア」
高慢な笑みを浮かべ、青年は懐から櫛を取り出して髪を梳かし始めた。いつもこうしてまず髪を梳かすので、ミーアは梳かし過ぎて髪がなくなればいいのにと毎度思う。酒を出す代わりに銀貨十五枚を卓に置く。
「はい、今月の支払い分。これでもう用はないでしょ。さっさと帰って」
青年の名はズニパーだ。たんぽぽ亭を管轄するノウェン西商会の会長の息子である。たんぽぽ亭は創業の際に西商会から援助を受けており、毎月借り入れ金の返済をしている。ズニパーは返済金の回収作業を担っていた。銀貨の枚数を数え、ミーアを見上げる。
「五枚足りないけど? 毎月二十枚って言ってあるだろ」
「今月は、調理器具をいくつか新調する必要があったから、これ以上はどうやっても出せないの。だから――」
言葉の途中でズニパーが卓を蹴り倒した。狂暴な音にミーアは思わず息を詰まらせる。
「おいおーい。出せないですすみませんって、それで許されると思ってんのー? 世の中なめ過ぎでしょー」
ミーアは怖じけづきそうになる気持ちを無理やり怒りに昇華させた。
「何を、偉そうに! 元々は銀貨十枚の支払いだったはずでしょ。それをあんたがいきなり倍にして――払えるわけ、ないじゃない!」
七日に一度の労働者の休日である太陽の日以外、毎日必死に働いてようやく銀貨十枚、これがいまのミーアたちに支払える無理のない返済額だ。生活費を削りどうにか十五枚までは工面したが、これ以上は絶対に無理だ。
ズニパーはミーアの主張を鼻で笑った後護衛に命じた。
「そのへん探せ」
「まさか! 勝手にとる気――きゃっ」
ミーアは護衛に手首を掴まれ卓の上に身体を抑えつけられた。その隙にもう一人の護衛が調理場の戸棚や引き出しを無遠慮に漁り始める。腕を動かそうとするがびくともしない。
「信じられない! こんなの、市の屯所に訴えたら強盗罪で――」
「おいおい。約束破ろうとしてるのはどっちだよ。契約書にちゃーんと書いてあっただろ? 『月々の返済額は商会の都合で変更できる』って。お前の親父の署名もちゃーんともらってる。捕まるのはどっちかなー?」
ズニパーが返済額を無理やり引き上げたのは三ヶ月前だ。不当だと、ミーアはミンロとともにすぐに西商会に直訴に行った。だが契約書には確かにズニパーが主張する一文があるらしく、どうしようもないと突き返されて終わりだった。
ミーアがズニパーを睨んでいると、ズニパーは立ち上がってミーアの顎を掴んだ。身動きがとれないため抵抗できずに上を向かされる。
「どうしても元の返済額に戻して欲しいっつーなら、ミーア。オレ様の女になれよ。そうすれば考えてやる。お前、顔はかわいいからな。たっぷりかわいがってやるぜ?」
指で頬を撫でられ寒気がした。香水をつけているのか近づかれると甘ったるい匂いがして気分が悪くなる。
「あんたの恋人になるなんて、死んでも嫌」
ズニパーは余裕の表情を保ったまま手を離した。丁度、護衛が引き出しにあった銀貨五枚を見つけ戻ってきていた。
「オレ様は優しいからな。今日は見逃してやるよ。その強気な姿勢が屈服する瞬間が楽しみだぜ」
「そのお金は、明日の買い出しのためのもので――っ」
ミーアは投げ飛ばされるように開放され、床に膝を強く打った。痛みに眉が歪むが、急いで立ち上がりズニパーたちを追いかける。だが彼らはすでに通りの人混みに消えようとしていた。冷静に考えれば、追いかけたところで護衛二人に勝てるはずもない。ミーアは消沈して店の中へ戻った。
「……どうしよう……」
「ミーア?」
ズニパーと入れ替わりでミンロが戻って来た。ミンロは乱れた卓と椅子に表情を曇らせる。
「……ズニパーさんたちが、来たのね」
「明日の買い出し用のお金、とられちゃった。どうしよう。明日も、お店あるのに」
泣きそうに俯くミーアに、ミンロが懐から何かを取り出した。手の平の上には銀貨が二枚あった。
「これを足しにしましょう」
「どうしたの、このお金」
「お母さんが内緒で貯めてたお金よ。それよりあなた、乱暴なことはされなかった? お母さん、そっちのほうが心配だわ」
「内緒で貯めてたって……そんな余裕、ないよね?」
ミーアはミンロのほうが心配だった。明らかに嘘をついている。
「お母さん、もしかして、わたしに隠れて仕事してた? 最近、夜中によく起きてたでしょ」
「あら……。気づかれちゃってたのね」
「当たり前でしょ」
「……実は、内職をしてたのよ。さっき、そのお給金を受け取りに行ってて」
「だめだよ、夜中に仕事なんて……。ちゃんと、寝なきゃ」
「お母さんは平気よ。大人だから、無理の加減もわかってるもの」
心配をかけまいと、ミンロは気恥ずかしげに笑う。
「今月は銀貨二枚だったけど、もう少し作業の量を増やせば、もう一枚くらいは多くもらえそうなの。そうしたら、ミーアに新しいワンピースを作りましょうね。あなた、もう長いこといまのワンピース着てるでしょう。お母さんがミーアくらいの歳の頃は、もっとおしゃれをしてたんだから。かわいい服を着られるのは、若いうちだけよ」
「……お母さん……」
「さあ。卓と椅子を元に戻しちゃいましょう。――掃除、一人でさせてごめんね」
ミンロはいつも通り、優しく笑った。
×××
次の太陽の日、ミーアは市の中央広場に設置された雇用掲示板の前で腕を組んでいた。休日なだけあり、中央広場は人が多い。教会の礼拝帰りの人や、噴水で遊んでいる子どもたちとその両親、デートをしている恋人に、甘味露店に並ぶ若い女性たち。平日ならまだしも、休日の真っ昼間に雇用掲示板を舐めるように見ているのはミーアくらいであった。
「お母さんだけを働かせるわけには、いかないんだから!」
副業である。気合いを漲らせ、掲示板に貼り出された五十枚ほどの用紙に目を通していく。平日は店があるため働けるのは太陽の日のみだ。そうなると基本は日雇いとなる。
日雇いは男性向けの力仕事が多い。一日働いて銀貨一枚以上稼げるだろうが、石材や木材を運ぶ重労働は、やはりミーアにはできない。雇用場所に行っても断られるだけだろう。
「できそうな仕事は――看板持ち……穴銀貨五枚。花売り……穴銀貨三枚。井戸水運び……穴銀貨七枚。うーん。一日働いても銀貨一枚にも届かないものばかりだわ。これじゃあただのお小遣い稼ぎ……ん?」
掲示板の右下にあった最新の募集紙が目に留まった。『急募』とあり、内容は野菜及び果物の皮剥き。経験必須で、採用人数は一名。来週から太陽の日のみの二週連続、極短期雇用だ。雇い主は、なんと、バックス公爵家である。
「初週が一日銀貨二枚……次週は、銀貨四枚!? は、破格だわ……さすが、貴族」
さらに詳細を見ると、事前に身分確認と技量試験を行うという。この辺りは手間なところだが、公爵家の仕事ならばお固いのは仕方がなく、給金から手間をとってもお釣りがくる。料理はミーアの得意分野だ。試しに受けてみない手はない。
「募集期間は……今日だけっ!? 急がなきゃ!」
もう昼過ぎだった。ミーアは公爵邸に向かって路地を駆け出した。
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