雨に添える

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雨に添える

覚えていることがある。 高校一年生の六月、しとしととぬるい雨の降る最寄り駅のホームに、中学生の男の子が立っていた。私の母校の制服。珍しいと思った。私の母校に電車通学の子は滅多にいなかったから。 時刻は夕方、いつもの陸上部の練習は雨の為に筋トレのみで、私は一本早い電車でホームに降り立った。反対側のホームに俯いて立つその男の子を見つけたのは、自分の乗ってきた電車が去ったその時で。生暖かい風に雨が揺らめいて、私の頬と制服をパタタッと濡らした。衣替えしたばかりの夏服のシャツに、じんわりと染み込んだ。ぬるい。雨も風も空気も、何もかもぬるくて、なんとなく早くここから離れたいと思った。 電車が参ります、とアナウンスが流れたと同時に私は改札をくぐった。一度振り返って見た男の子は、俯いてはおらず真っ直ぐ前を見ていた。私を見ていた。 この小さな最寄り駅がテレビのニュースに映ったのは、その日の夜のことだった。 花束を買う勇気が持てなくて、いつも一輪挿しだ。一輪の竜胆を携えて、かつての最寄り駅までの道を歩く。梅雨の中休みで、昨日あたりから酷く蒸し暑い。名前も知らない話したこともないあの子がこの世を去って、もう十年が経った。駅前はほとんど変わっていないが、駅自体は建て替えで新しくなった。 あの子について知っていることは乏しい。中学二年生であったこと。電車通学ではなかったこと。当時、テレビや町の人はいろいろ言っていたけれど、私が知っていたいと思ったことは、そのくらいだった。 十年前自ら時を止めてしまったあの子のこと、私が覚えていたところで、花を添えたところで、世の中は何も変わらないし忘れていく人は容易く忘れていく。それは別に責められたことではないし、私も贖罪だとか同情だとかそういう目的の為に花を添えている訳ではない。 駅の構内アナウンスが微かに聞こえてくる。この横断歩道を渡れば駅だ。信号が変わって、駅へ入って、切符を買って、向かいのホームへ行って、花を添える。この行為に名前を付けるとしたら、願いだと思った。いつか私がこの世からお別れした時、少しでもあの子の近くへ行けるように。名前を聞いて、呼んであげられるように。 十年前のキミ、勝手ながら、私のこの願いを許していてほしい。
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