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「十年前に助けていただいたペットボトルのキャップです!」
それはどうも、ご丁寧に。
なるべく不自然でない会釈を返して、私は一目散に逃げ出した。
きちんと着こなしたスーツ姿の若者だった。
時期も時期だ。新卒で社会人になったものの、さまざまなストレスにさらされ、あのような言動に至ったのかもしれない。
息が切れる。自分の年齢を考えずに全速力で走ったせいだ。
「大丈夫ですか? よろしければお水、どうぞ。今そこで買ったものですから」
「いいえ大丈夫、どうもありがとう」
胸を押さえて壁にもたれた私が、よほど危うく見えたのか。
ペットボトルを差し出してくれたのは、若い女性だった。
「あの時はありがとうございました」
「はあ、どこかでお会いしましたか?」
「十年前に助けていただいた煙草の吸殻です!」
私は再び走った。気味が悪い。無我夢中だ。
テレビかネット配信の企画だろうか。それとも新手の親父狩りだろうか。
「あの時のサドルです!」
「助けていただいた靴紐です!」
「十年前に!」「十年前の!」
私が何をしたというのだ。何が起こっているのだ。
混乱する頭で、会社に急な体調不良を告げ、どうにか休みをもらい、這々の体で家に帰り着く。
声をかけてくる相手は誰も彼も、眩しいばかりの笑顔で、十年前の無機物であると告げてくる。
その時期、確かに私は、ボランティアでゴミ拾いやらをやっていた。
しかし、ボランティア全員にこんなことが起きるのでは、社会はとっくに崩壊しているはずだ。
「あなた、大丈夫? 部長さんから連絡があって。よかった、無事に帰ってきてくれて」
妻が心配そうに出迎えてくれる。
歳の離れた器量よしで、私にはもったいないくらいの素敵な女性だ。
「えらい目にあった。十年前のなにがしだと追い回されて、気が狂いそうだ」
「どういうこと?」
「ほらあの、ゴミ拾いのボランティアあったろ。十年前、私たちが知り合った」
「懐かしい」
「それどころじゃない。その時のやつらが、お礼参りにきたんだ」
「何言ってるの、落ち着いて」
落ち着いてなどいられないから、まとまらぬ頭でこうして打ち明けているのではないか。
「大丈夫。本当にみんな、十年前のお礼を言いたいだけだから」
妻の一言に、血の気が引く。
何故そちら側からの物言いなのだ。
他の無機物の礼ならいくらでも聞こう。
だからどうか、言わないでくれ。
祈るように見上げた妻は、眩しいばかりの笑顔を浮かべてみせた。
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