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十年
葬式は極シンプルで。
後日、お別れの会が盛大に催されるらしい。
そちらに出るときには、多少対面も気にしなくてはならないだろう。けれど今日は。故人の希望でマスコミも仕事関係者も全てをシャットアウトしたこの席でだけは。
顔を上げた先ではあなたが笑っている。
思えば、あなたはいつも穏やかに笑っていた。
初めて会った十年前のあの日から、あなたはわたしの総てだ。
◇◇
もしも出会ったあの頃に戻れるのなら。
あなたの遺影を前に拳を握る。
わたしはあなたが好きだった。
単純に師として焦がれていたし、それ以上にあなたを求めていた。
あなたを好きだった。
穢したくなかった。嫌われたくなかった。
認められたかった。
一心に弾き続ければ。あなたに追いつけば。
そうすればいつか。
だってあなたは気づいているのだから。
わたしの弾く音に醜い渇望を感じ取って尚、わたしを傍に置いているのだから。
十年。ひたすらに弾き続けた。
あなたに焦がれ続けた。
抱き潰してしまいたかった。
こんな形で置いていかれるのなら、いっそ嫌われても。
わたしを置いていったくせに、あなたは穏やかに笑っている。いつもと変わらぬ笑みでわたしを見つめる。
だからわたしは握った拳を振り上げられない。
馬鹿みたいに涙を流して、ただあなたを見つめている。
喩えば十年前に戻れても、わたしはきっとただピアノに向かうのだろう。
あなたが与えてくれる音を、旋律を、一心になぞって。追いかけても追いかけても届かない背中に手を伸ばし続けるのだろう。
あなたが振り返って手を差し伸べてくれることは無い。それはわたしの為にならないと、あなたは知っているから。
もしも追い抜いてわたしが振り返ったら、あなたはどうしただろうか。
あなたはとても厳しい師だった。わたしに妥協を許さなかった。けれど上手く出来たときには必ず認めてくれたから。
もしも――
心地好く流れるあなたのピアノの音が、詮の無い幻を求めさせる。ゆるく立ち籠める白檀の香が、戻らない日々を悔ませる。
だからわたしは言ってやりたい。十年前の、いや、一年前でもいい。過去のわたしに。
焼香の煙の向こうからあなたがわたしを見つめている。
ああどうか。
どうか、この穏やかな笑みを壊すことのないように。
昨日のわたしに。一年前の、十年前のわたしに。
厳しくて優しくて、狡いあなた。
そんな選択しか許してくれないあなたがわたしの総て。
願わくば十年後のわたしも
あなたを追い求めていますように。
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