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「今日も月が綺麗だよ」
雲が低く立ち込める夜空を見上げて、僕は言う。
「今宵の月はどんな色をしてるのかなあ?」
無邪気な笑顔がこちらを見上げる。
…実際にはその瞳が僕を見ることはない。
彼女は光を知らなかった。生まれてからずっと。
10年前の3月の中旬、肌寒い毎日が続いていた京都にやっと陽気が訪れた。
僕は大学の仲間と連れ立って、出町柳へ向かった。
街の人々も不意な春に浮かれ、鴨川沿いは人があふれていた。
その中に、彼女はいた。
白いワンピースと、風に揺れる長い黒髪。
肌は乳白色そのもので、凛とした姿勢で芝にちょこんと座っていた。
そして、ずっと目を閉じていた。
最初はうたたねでもしたのかと思ったが、その目は遥か遠くを眺めていた。
瞼が上がることはない。でも確かに春の流れのその向こうを見据えていた。
春の陽気に浮かれた僕らはいつしか打ち解け、夜になった。
その日は満月だった。
月は夜の街のどの明かりよりも大きく、明るく、美しかった。だから、
「うわ、月が綺麗」
と小さく呟いたのは無意識のことだった。
日本人では誰もが聞いたことのある「きざ」なセリフに僕は自ら赤くなった。彼女はにこ、と笑って
「月が見れたらなあ」
と言った。その言葉にきっとそれ以上の意味はなかった。
とある日、京都は春の嵐に見舞われた。この日は初めて彼女の部屋に迎え入れられた日だった。手すりで囲われた異様な空間で、五感の一つが欠けていることを感じさせない彼女に触れた混乱が、僕の思いを溢れさせた。
「今日も月が綺麗だ、とっても」
「雨が降ってても月って見えるの?」
「どんな日も見えるよ、明るいから。」
それからというもの、僕は10年間に渡ってひそかな告白をし続けた。
雪の降る夜も、新月の夜も、嘘をつき続けた。
そして今日。静かに雨の降る日だった。
僕は彼女と家族になった。
彼女は大学で盲目の研究者として、僕は教師として働きだして数年がたっていた。
目を瞑ったままこっちを見て無邪気に笑う彼女は、あの春の日のままだ。
そして、抱き合った耳元で彼女が言った。
「今日も月が綺麗だね。雲に隠れて見えないけど。」
全部わかってた、呟いた君をもう一度強く抱きしめる。
10年前の僕が不意にあんなことを言わなければ、
こんなに恥ずかしい思いはしなくて済んだのに。
明日も明後日も、1年後も10年後も、ずっと月が綺麗と君に言い続けよう。
見えない月と、見えない彼女の瞳に、僕は誓った。
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