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羽化
「おとなになったら結婚しよう」
僕はそう言ったけど、言葉の意味は半分も理解していなかった。緑に染まってしまった葉桜の下で、ミカちゃんは僕を見つめる。麦わら帽子と同じ小麦色の肌に浮かぶ瞳は、夏の青空よりも澄んでいて、思わず吸い込まれそうだった。
僕はセミの幼虫のように、自分の部屋でただじっと縮こまることにした。
ミカちゃんがいなくなってしまったという現実を受け入れることは、当時の僕にとっては酷く耐えられなかったからだ。大人たちが放っておいてくれたことだけが救いだった。でも彼らは知らないのだ、ミカちゃんがどこに行ってしまったのかを。
「悪いことをしたら謝らないといけないの。ワシントンだってそうしたんだから」
「わしんとん?」
「海の向こうの偉い人だよ」
ミカちゃんは僕の知らないことを沢山知っていた。セミの寿命が一週間じゃないことも、桜の木の下には死体が埋まっていることも。だけど彼女は知らなかった、僕の愛がどれだけ深いものなのかを。
蝉時雨はうるさいから嫌いだったけれど、その時ばかりは僕の心の隙間を埋めてくれた。セミは最期に大声でなき喚くと、ミカちゃんは言っていたけれど、どうやらそれは本当だったらしい。無造作に掴んだ僕の手の中で、跳ね回っていた身体は小刻みに震えて、やがてピクリとも動かなくなった。
長い長い眠りから目を覚ます。あれから僕も随分と賢くなっていた。両親が僕の存在をやっかんでいることに気が付いていたし、それに警察だってこの季節になると、何かが見つかるはずだと期待して動き始める。僕は部屋の扉を開けて、桜の木の下に向かった。
「ごめんね」
最初はセミがうるさくてよく聞こえなかった。
「私はもっと物知りな人のお嫁さんがいいな」
僕はあまり頭が良くなかったから彼女の言葉の意味がよく分からなかった。ただ目の前の生き物がどうしようもなく欲しかったから、腕を伸ばした。
土を優しく掘り返し、銀色のお菓子箱の中から、甘い甘い思い出とともに、ミカちゃんを取り出す。長い間、夏の日差しを浴びていなかったからか、彼女はすっかり白くなってしまっていたが、それがワンピースと一緒の色でとても似合っていた。
もう僕たちは立派な大人だった。結婚だってできるんだ。新婚旅行は誰も知らない場所に行きたいね。海の向こうか、空の月にでも。だけど羽をもがれてしまった僕らは一体どうやってそこへ行けばいいんだろうか?
ねえ、教えてよミカちゃん。
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