水界線に二人きり

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 もし私が人間のように、夢というものを見られたなら、まさに今目にしている光景を夢だと思ったことだろう。睫毛の先の雫越しに人影を認めて、セレストはそんなことを考えた。    客のため対面に置かれた椅子は、(こけ)で輪郭が歪になった。机には雨染みが増えていく。いつかの風に揺られて相方のインク瓶を失った羽根ペンだけが、少女の手に固定されたまま、水滴を弾いて頑張っている。  机に向かい、独り座り続ける彼女のテントには、長らく誰も訪れていない。外の遊具に屋根のない移動遊園地は、元々雨の日は休園だった。しかし珍しく雨が長引いているとはいえ、テントがぼろぼろになってもまだ様子を見に来てくれないのはあんまりだ。  年寄りの技師はいつも「おまえの機構は繊細すぎる」とぶつくさ言いつつ、欠かさず手入れをしてくれたのに。わずかに残った屋根の布が、かろうじて上からの雨を防いでくれてはいるけれど、風が吹けば水滴が飛んでくるようなこの状況は、「繊細な機構」にとって良いはずがないのに。    控えめに笑んだまま微動だにしない陶製の顔の奥で、少女の機嫌は斜めに傾く一方だった。自分の姿の描かれたポスターが、黴に侵食されてなお壁に貼りついているのが、未練がましくて嫌になる。「セレスト! 字を書く機械のお姫様!」などと大書されているのは最悪だ。  このテントがまだ色鮮やかだったときは、その肩書も悪い気はしなかった。背丈の近い子どもから、本当にお姫様と呼ばれ、花をもらったこともある。ドレスと同じ色の小さなヒマワリ。技師が代わりに受け取って机に飾ってくれた。絵になるという客の声もあり、遊園地の開園日にはインク瓶の横に季節の花が添えられるようになった。だからあの少年には感謝している。    しかし儚いお城は強風のたびに傷んでいく。露出した骨組みに、色褪せ破れた布を下げた今のテントは、まるで蜘蛛の巣だ。かかるものもない、その巣の主が自分かと思うと、セレストは惨めで仕方がなかった。    少女の視線の先で、とうに落ちた入口の幕が泥にまみれている。彼女が接客に勤しんでいた頃には垣間見る程度だった、蒸気で回るという木馬もティーカップも、よく見える。  彼らに被せられていた雨避けは、嵐に手綱を解かれて彼方へ飛び去った。動かずとも天を駆けるようだった木馬は、支えが朽ちて倒れ伏している。白地に花模様のティーカップは塗装が剥がれるにつれ、本当に紅茶を注いだかのように変色していく。テントが遊具のある広場より少し高い位置にあるおかげで、観察が(はかど)って気が滅入る。    無残な夢の跡を歩いてくる人影は、傘をさしていた。気に食わない。濡れずにここまで来られるなら、もっと早く来るべきだった。そしてこの敷地全体を丈夫な傘で覆ってくれれば、遊園地は廃れずにすんだ。私もこんなに湿ったりはしなかったのに。  恨み言を募らせていた彼女はしかし、階段を上がってテントの前に立った見知らぬ青年の姿を見て、溜飲を下げた。黒い傘には点々と穴が開いている。服は腰の辺りまで泥や濡れた枯れ草で汚れているし、彼が脱いで逆さにしたゴムのブーツは濁った水を吐き出した。乾いた場所で平穏を貪っていたわけではなさそうだ。  セレストは彼に、自分が内側だけで浮かべている(たぐい)の表情を期待したが、男は彼女を見るや否や息をのみ、自らその勢いにむせ込みながら、満面の笑みなど浮かべて見せた。
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